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人肉の味を覚えたヒグマは土葬死体を荒らして腸だけ喰った【瀬棚村連続人喰い熊事件】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.12.09 06:00 最終更新日:2023.12.09 06:00
北海道・渡島半島の瀬棚村(現せたな町)は、人喰い熊事件が継続して発生する全道でも珍しい地域である。
事件記録をたどってみると、
明治21年(1888年):2名負傷
明治29年(1896年):1名死亡、3名負傷
明治38年(1905年):1名死亡(死体食害)
明治43年(1910年):4名負傷
となり、反復してヒグマが人を襲う事件が発生している。
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最初に人的被害が出た明治21年の事件を、当時の新聞から引用してみよう。
《瀬棚郡瀬棚村字瀬足内、旧土人住吉健八、同上熊澤伊右衛門の二名は、客月五日貉狩りのため斧鉞を携え苔谷地山中に至ると、突然大熊一頭駈け来たり、伊右衛門に噛み付き、股に一ヶ所の傷を負わせたので、伊右衛門は敵しがたきを覚り、「偽り死」して倒れたれば、大熊はこれを打ち捨て、半町ばかり隔たっていた健八に噛み付き、数ヶ所に傷を負わせ、健八がついに倒れたのを見て大熊は逃げ去ったので、伊右衛門ははじめて安心し、健八をたすけ、共に帰村して目下治療中なりという》(『北海道毎日新聞』明治21年4月26日)
ケガを負わせて逃げていることから、加害熊が身の危険を感じて排除行動に出た結果と思われる。
次に被害が出たのは明治29年であった。このときは1名が喰い殺されるなど犠牲も甚大であった。
《瀬棚村字冷水の農業、四宮孫平夫婦は、去る十日朝、子供を連れて丹羽村開墾地から瀬棚本村へ赴く途中、仔を連れた大熊に出会い、逃げ出す途中、泥濘に足を取られ転倒、無惨にも左腕、右太腿を手ひどく掻き裂かれ、妻も同じく胸部肋部に重傷を負った。
近所の者が駈けつけたが、熊はなおも悠然としてしばし逃げず、村民はやがて遭難者を介抱したが、子供は幸い無事だったが、妻は急所の重傷なので助命は覚束ないとの話》(『北海道毎日新聞』明治29年9月17日)
同事件については『我が丹羽村の経営』(丹羽五郎、1928年)にも記録があり、《真駒内鍋坂にて折野某は、熊に噛み殺され、「めな玉川」河畔にては二宮老人大負傷をなし、大木又三郎、三上広作の二人は愛馬を喰われ、五郎も裏の牧場にて放馬数頭を殺傷せられたり》とある。
折野という人物が襲われた事件については地元紙に詳述されていて、
《十九日午前九時頃、折野梅吉なる人、雪垣用の雑木を自宅より六、七間離れた笹原にて伐っていると、図らずも藪の中に熊ありて、梅吉は手もなく掴み去られたので、それを見た近所の塩田利吉という人が、熊を追跡したが、熊は立ち帰って追っ手にかかり、利吉にも薄傷を負わせたので、七、八名の人々、手に手に得物を携え、藪の中に分け入ると、無惨にも梅吉は頭部と背部に傷を受け、すでに絶命していた》(『北海道毎日新聞』明治29年11月28日)
折野を襲ったと見られる加害熊は、その後も丹羽村に居座り、馬を捕ろうと厩に襲いかかり、3〜4名が金ダライをうち鳴らして追い払おうとしたが、まったく怖れる様子もなく、見る間に馬を打ち殺した。その馬を肩にかけて、後肢でノソリノソリと藪の中に入り、その肉を食い始めたという。
報告を受けた丹羽は、愛銃「ウィンチェスター13連発銃」を携え、1名をともなって直ちに駆けつけた。
《月光に透し見るに、件の大熊は彼の藪の中にありて、馬肉を喰いながら人々が来ると時々傍(かたわ)らの倒れ木に両手をかけ伸び上がってこちらを伺う様なり。
両人は物陰に隠れつつ忍びやかに数間のところまで近寄り、もはや射頃と見えたので、筒口揃えて狙いを定め、一斉にひきがねを引いて射放すると、狙い違わず打ち込みたり。
熊は打たれて猛り狂い、眼をいからし爪牙を張りつつ丹羽氏を目指して飛びかかり来るを、心得たりと筒口を胸の辺りにおし当てつつ、残る弾丸を連発したので、さすがの荒熊もなにかは堪らん、もはや痛手に悩みつつ三十間ばかりのところに遁走して、そのままドウと斃れるところを、またもやすかさず射撃して、ついにこれを打止めた》(『読売新聞』明治29年11月30日)
村民は万歳を唱えて熊を担いで帰り、翌日はこれを料理して村民100戸に分配したという。熊の大きさは目方50貫、身の丈は8尺5寸のすこぶる年を経た老熊で、前歯は欠け落ちていたという。
つづいて明治38年4月23日の事件。瀬棚村の高橋岩吉(24)が数人の者と笹刈りに山に入ったところ、1頭のヒグマが出現して岩吉を捕えた。仲間が樺の皮に火を点じヒグマを追ったので、一度は瀕死の岩吉を置いて逃亡したが、友人が岩吉氏を運び去ろうとするや再び現れ、ついに岩吉は奪われて喰い殺された(犬飼哲夫『羆による人の被害』、1935年)。
執拗に男性をつけ狙う行動から、加害熊が男性を「エサ」と認識していた可能性が高い。さらに事件は続き、明治38年11月には、《瀬棚村島歌の墓地では新しく埋葬した死体を発掘して腸だけをくった》(犬飼哲夫『林』収集「熊」北海道林務部、1953年3月)という。
同じ時期に同じ地域で起きたこの2事件は、おそらく同一の個体によるものだろう。この加害熊は取り逃がしてしまったようで、その行方はわからない――。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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