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「『朝生』の田原さんの後任をやってみたい」ホリプロに所属した理由は発信力を100倍にするため【泉房穂の「ケンカは勝つ」第41回】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2024.04.17 06:00 最終更新日:2024.04.17 06:00

「『朝生』の田原さんの後任をやってみたい」ホリプロに所属した理由は発信力を100倍にするため【泉房穂の「ケンカは勝つ」第41回】

 

 4月6日に「ホリプロ」に所属したことをXで報告すると、思いがけないほど多くの問い合わせをいただいた。スポーツ新聞にも取り上げられた。ありがたいことにそれだけ関心を持っていただけたので、私事やけど、なぜ事務所に入ったかをお伝えしたい。

 

 芸能プロダクションといえば、所属する人は俳優や歌手などをイメージしがちだろうが、残念ながら私には演技や音楽の才能はない。ホリプロにはスポーツ文化事業部があり、そのなかでアナウンサー、アスリート、文化人の部門に分かれ、私は文化人に該当する。俳優や歌手といった芸能人になるわけではない。

 

 

 問い合わせで多かったのが、「事務所に入ると、今までのように本音をズバズバ言えなくなるのでは?」というもの。そんなことはなく、私は私のまま。むしろ、スポンサーの言いなりの芸能界やテレビ局のあり方を変えていきたいとさえ思っている。

 

 ホリプロには、私からの要望にも応えてもらった。専属契約ではあるが、これまでやってきたXやYouTubeチャンネルなどは、私自身の判断で発信を続けていく。とにかく私は私であって、何かに縛られることはない。

 

 そもそも、どこかに属しても忖度するような人生は送ってこなかった。私のウリは本音トーク。忖度した瞬間、私という人間は終わってしまう。それは、ホリプロもよくわかっているはず。

 

 私は2023年に還暦を迎えた。人生の2周めに入り、これからの10年が勝負やと思う。

 

 私の原点は、10歳のころに冷たい社会への復讐を誓ったこと。「万人に優しい街を作りたい」。その思いだけで50年間走ってきた。

 

 明石の貧乏漁師の家に生まれた私の子供時代、生活は貧しかった。親父が一生懸命働いても、いっこうに楽にならず、ご飯のおかずも少なかった。「頑張ったら報われる社会」にしたいと思った。

 

 そして、「差別」との闘い。4つ下の弟は、生まれながらに障害があった。当時、まだ優生保護法があって、とくに兵庫県では、障害がある子供を地域に迎えないという運動をしていた。障害を持って生まれた弟は、病院で死ぬはずやった。ひどい話やけど、当時はそれがまかり通っていた。それでも、両親は「障害が残ってもいいから」と、弟を家に連れて帰った。

 

 やはり現実は甘くない。弟が2歳、私が6歳のときに、おふくろが無理心中を図る。弟の障害者手帳に「一生起立不能」と書かれた日に、おふくろが弟を道連れにしようとした。

 

 結局、死にきれなかったおふくろは、「お前のせいや」と私を責めた。「お前が弟のぶんまで2人ぶん取って生まれてきたから弟は歩かれへんのや、半分返せ」と、無茶苦茶なことを言われたが、私は「返したい」と思った。

 

 願いが通じたのか、弟は4歳で立ち上がることができた。家族4人で、「これで小学校に通える」と喜んだ。

 

 ところが、当時の明石市は「電車やバスに乗って遠くの学校に行け」と突き放した。なんとか頼み込んで地元の小学校に入ることができたが、そのときに出された条件は「送り迎えは家族がする」「何があっても行政を訴えない」。

 

 両親は忙しくて、弟を送り迎えするのは私の役割。毎朝、弟の教科書も私のカバンに入れて、一緒に学校に行った。校門を入ったところにあるトイレで、弟のランドセルに教科書を詰め替え、「頑張れよ」と1年生の教室に送り出す。しんどかったね。

 

 全校児童で潮干狩りに行ったときのこと。弟がわずか5cm、10cmの浅瀬で突っ伏して溺れかけた。でも、みんな知らん顔。私は走っていって弟を助け起こしたが、このときの悔しさは忘れられん。

 

 泥だらけの弟と歩いた帰り道、私は「冷たい街を優しくしてみせる」と誓った。

 

 それからは猛烈に勉強した。勉強しなくても賢い人はいるけど、私はそうじゃなかった。貧しくて塾には通えず、参考書も買えなかったけど根性で努力し、現役で東大に合格した。そこらへんのボンボンの政治家とは違う。

 

 大学を出て、社会に揉まれ、47歳で明石市長になった。任期の12年間、やるべきことをやったという自負はある。

 

 途中、不祥事で辞めることになったけど、市民が立ち上がって私に「頑張れ」と言って再起させてくれた。マスコミから叩かれ続けても、最後の執務を終えたときには何百人もの市民が花束を持ってきて送り出してくれた。

 

 かつて自分の街を見下していた市民も、「誇りを持てる街になった」と言うようになった。ようここまでやり遂げたと、自分を褒めてやりたいくらい。

 

 市長を辞めた後、積極的にテレビに出たり、本を出したり、「FLASH」の連載をやったりしてきた。でも、全然満足していない。メディアへの出演は増えたが、そこまで有名になっていない。11冊出した本に、ベストセラーはまだない。Xのフォロワー数は60万人を超えたけど、前澤友作さんは約1000万人やし、ホリエモンも300万人を超えている。

 

 それでも、私は日本をなんとかしたいと本気で思っている。目指すのは、やはり「救民内閣」の実現。市長として12年間で明石を「優しい街」に変えたように、これからの10年で国全体を変えていきたい。もっとも、明石と国ではレベルが違う。市長の延長線上ではなく、さらに次の段階へ自分を高めなあかん。

 

 そのためには、発信力を強化する必要がある。テレビなら、今のような “ちょい役” ではなく、『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)の司会とか、『サンデージャポン』(TBS系)のMCとか、せめてそれぐらいはやらないと始まらない。気持ちとしては、これまでの100倍くらいの発信力が必要だと思っている。

 

 もちろん、これはたんなる私の妄想。だけど、それぐらいの影響力がないと、世の中は変えられん。いっぺん、ホリプロに頼んでみよかな。

( 週刊FLASH 2024年4月30日号 )

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