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ホンダをやめてコミュニケーションの専門家になった男の転機

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2017.11.23 20:00 最終更新日:2017.11.30 14:10

ホンダをやめてコミュニケーションの専門家になった男の転機

『写真:AFLO』

 

 有波康治さん(56)が30年間勤めた自動車メーカーのホンダ(本田技研工業)を辞めたのは、53歳のときだ。「どうして?」「なぜ今?」みんなから不思議がられた。

 

 辞める決断に至るまでには仕事や人間関係の悩みなどがあった。それで、人間心理とコミュニケーションに関する学問を学び、自分自身と向き合う時間が多くなっていた。

 

「かつて自分が人生で大事にしたいことは何かと考えたとき、五つの言葉が出てきました。『わくわく』『一生懸命』『楽しむ』『人の役に立つ』『人の生きる力になる』。

 

 では、ホンダの仕事であてはまるものがあるだろうか? 心からそう思えるものはありませんでした。

 

 一方で、ホンダの仕事で得られるものを考えると、『安定』『お金』『地位』『名誉』でした。しかし、これらは私が人生でなにより大切にしたいものではないことに気がつきました」

 

 車が好きだった有波さんは、大学を出るとホンダに就職した。会社の個性や独創性に憧れた。モノを作る会社は、モノにその理念が出る。モノを通して共感できるのがいいと思った。最初の配属先は総務・人事部門だった。

 

「総務・人事関係を十数年。ホンダは自分が希望するか出されるかしない限り、だいたいは同じ部門や領域でキャリアを積みます。車を作っている会社に入ったのに、人に関わる仕事ばかりしていて、もっと車に関わる仕事がしたいと思いました」

 

 そこから有波さんの部門変遷が始まる。まずは新規事業のカーシェアリングのプロジェクト。概念そのものが、まだあまり知られていなかった。チャレンジする仕事で夢があり、わくわくしてきて35歳で手を挙げた。

 

 しかし、新しい職場は想像したものとは違った。個性的な同僚たちから、存在価値を認めてもらえない日々が続いた。飲み会では、酔ったリーダーから「お前はなにもない奴だけど、まあ頑張れや」と言われた。その言葉がきつかった。

 

「出勤をためらうような状態に陥りましたが、所属するプロジェクトチームの隣にあった部門の課長が、あるとき声をかけてくれました。『たいへんそうだが、お前の目を見ていればしっかり仕事をする奴だというのはわかるよ。一生懸命やっていると、人は必ず見ている。だから、投げるなよ』」

 

 その課長が後に宣伝部門に異動し、41歳のときに呼んでくれた。宣伝は憧れの仕事だった。ホンダの社員数は2万人以上だが、当時の宣伝部門はわずか十数人で、営業や宣伝の未経験者が入ることは異例だった。代理店やプロダクションの海千山千の人たちに揉まれながら、一生懸命やっていくうちに仕事が回りだし、自信がついた。そして、管理職になった。

 

 10年後、広報部門に異動。しかし仕事に馴染めず、自ら異動を願い出て営業部門に移った。だが、そこも自分の経験を生かせる場ではなかった。

 

「うつっぽくなっていた私を心配していた妻に、『会社を辞めようと思う』と伝えました。すると『好きにしていいのよ』とひと言。『でも給料、なくなるよ』『なんとかなるわよ。あなたならなんとかすると思うし、なんとかならなかったら私がいるし』。子供がいないので友達みたいな夫婦ですが、本当にありがたかったし、支えられました。おかげで伸び伸びとやっていられます」

 

 会社を辞めた有波さんは、人間関係の基礎となるコミュニケーションの勉強をし、日本コミュニケーション能力認定協会の本部トレーナーになった。個人でも講座を持って教えると同時に、企業でビジネス研修の講師も務めている。教えることで、その人の人間関係や仕事、家庭生活などが変わるなら、それは自分がしたいことにつながる。収入は減ったが、仕事が救いであり、喜びだ。

 

 今、有波さんは受講者からアリナミンと呼ばれている。苗字のもじりだが、きっと彼らの疲れを取り、元気を与える薬のような存在になっているのだろう。

 

(週刊FLASH 2017年12月5日号)

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