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戦争が「コンサルティング」を生んだ…1960年代、アメリカ型資本主義が絶頂期を迎えるまで

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記事投稿日:2025.03.01 11:00 最終更新日:2025.03.01 11:00
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
戦争が「コンサルティング」を生んだ…1960年代、アメリカ型資本主義が絶頂期を迎えるまで

第一次世界大戦で水上機を組み立てる女性(写真:akg-images/アフロ)

 

 アメリカの経済発展は、現代に至るまで、戦争というカンフル剤の上に成り立っている。

 

 特に、1914年7月に勃発した第一次世界大戦は、アメリカの経済力を大幅に躍進させるきっかけとなった。それまでのアメリカは、日本同様の新興国にすぎなかった。当のアメリカ自身が、自らをヨーロッパの列強諸国に比して後進国であるとみなしていた。

 

 実際、坂本龍馬が愛読していたとされる国際法の解説書『万国公法』でも、世界の「5大国」とはイギリス、フランス、オーストリア、プロシア、ロシアを指しており、アメリカは「新興国」という位置づけになっていた。

 

「新興国」であったアメリカが、日本と並んで「5大国」の仲間入りを果たしたのは、第一次世界大戦を経てのことである。

 

 

 世界最初の総力戦とされる第一次世界大戦に際して、アメリカは当初、中立を守っていた。先に参戦していたイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国はその間に物資が窮乏し、アメリカからの借款に依存せざるをえなくなっていった。アメリカは、鉄鋼や小麦の生産量を飛躍的に増大させ、軍需品生産に追われているヨーロッパ諸国に積極的に輸出していった。

 

 1917年4月には、アメリカもドイツに宣戦布告して大戦に参入する。参戦までにアメリカの経済力は格段に上向いていた。大戦前には純債務国であったアメリカは、大戦後の1919年には貿易黒字を実現、132.3億ドルもの対外債権を保有する債権国にさえなっていた。

 

 第一次大戦後、欧州では戦勝国も敗戦国も経済的に疲弊している中、アメリカは新たに勃興した「世界の工場」として、急速な経済成長を遂げたのである。この大戦を通じて日本も同様の発展を遂げた。

 

 1929年の世界恐慌で冷や水を浴びせられるまでは、「狂騒の20年代」とも称され、株式や国債が濫発され、投資熱が煽られた。次第にアメリカ人の間には、「地道に働くより、投資したほうが儲かる」という価値観が浸透していった。

 

 さらに新興国アメリカでは、政府は市場に積極的に介入しようとせず、民間企業に市場運営を委ねる「小さな政府」が志向された。「小さな政府」がなすことといえば金融政策、徴税、公共投資である。見方によっては、戦争も公共投資の一種である。

 

 第一次世界大戦がアメリカにもたらしたものはほかにもある。コンサルティング業界の隆興である。コンサルティングが、第一次世界大戦を通じて、にわかに脚光を浴びることとなったのは、以下のような経緯による。

 

 アメリカ合衆国は、第一次世界大戦の影響による歳入不足を埋め合わせるため、また参戦してからは戦費調達を目的として、特別税、超過利得税、戦時利得税など、税制上の新法を矢継ぎ早に成立させていった。

 

 これによって、会社などの法人は高率の税負担を強いられた上に、 法制度は複雑になり、専門家による助言が必要とされた。その結果、特に会計コンサルティングの需要が急増したのである。

 

 プライス・ウォーターハウス(現・プライスウォーターハウスクーパース)は、1849年にロンドンで創業されると、1890年にニューヨーク事務所を設立。その後は合衆国政府をクライアントとして、財務顧問のような役割を果たしていった。その一方で、法人向けにも税務サービスを提供し、政府と民間の両面にわたる事業を展開していた。複雑な税制へのアドバイスに定評があった。

 

 また、初めて「経営コンサルティング」を名乗ったブーズ・アンド・カンパニーは1914年に、マッキンゼーも、シカゴ大学教授で、会計の専門家であったジェームズ・マッキンゼーによって1926年に、いずれもシカゴで設立された。

 

 そして第二次世界大戦までの戦間期に、コンサルティング業界は、経営管理手法を生み出していった。企業が巨大化し、海外展開や多角化が進展していくにつれて、経営管理(マネジメント)の必要性がにわかに高まってきたからであった。

 

 この時期に生み出されたマネジメント手法の代表が「事業部制組織」である。

 

 経営史学者のA・D・チャンドラーは、『組織は戦略に従う』(ダイヤモンド社。原著は1961年)の中で、第一次世界大戦直後から1920年代にかけて、アメリカの先鋭的な巨大企業4社が、それぞれの必要から事業部制を採り入れていった経緯を、明らかにしている。

 

 化学企業のデュポン、自動車企業のゼネラル・モーターズ(GM)、石油企業のスタンダード・オイル、そして小売業のシアーズ・ローバックの4社では「管理された分権化」がみられた。各事業部が、事業に必要な機能をすべて備えているため、事業部単位で計画を立て、利益を出していくことが可能になった。

 

 その結果として、事業の多角化に対応しやすくなるだけでなく、事業部ごとに経営者を育成していくことにもつながっていったのである。

 

 企業は、20世紀初頭のような、創業者の独断によって経営されるものから、マネージャーによって管理(マネジメント)される対象へと変化していった。

 

 アメリカ式の企業経営は実に効率的であり、他国でも通用した。独自の進化を遂げたアメリカ型経営は、いつしか誰もが範として倣いたくなるほどの完成度を備えていた。

 

 コンサルティングは、第二次大戦後、ますます勢いづいていった。アメリカのコンサルティング会社は、優良企業の経営管理手法を「ベスト・プラクティス(最も優れた実践事例)」として抽出し、外国企業に続々と「コピー」する役割を果たした。

 

 ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)は、1963年にボストンに誕生したが、そのわずか5年後に東京支社が開設された。限られた人材、設備、在庫を用いて効率的な生産を実現したことで注目されていたトヨタの「カンバン方式」が「JIT(ジャスト・イン・タイム)」と呼ばれ、再現性のある仕組みとして、世界中の製造業全般に応用されていった。

 

 トヨタが職人技として培ってきた暗黙知を、コンサルティング会社が様々な業界の企業に応用できる形に整理して、世界中に拡大していったのである。

 

「ベスト・プラクティス」を多業種に当てはめていくことは、投資を主体とするアメリカ型資本主義にとっても都合のいいものであった。投資は企業の成長を対象とする。そして企業の成長のためには、暗黙知に支えられた属人性の高い職人技よりも、誰にでも単純明快に模倣できるシステムが好まれた。

 

 こうしてアメリカ型資本主義は、1960年代から1970年代にかけて絶頂期を迎えるのだ。

 

 

 以上、侍留啓介氏の新刊『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』(光文社新書)をもとに再構成しました。「資本主義ゲーム」の枠内で賢く生き抜くための方策を示します。

 

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