社会・政治
60年ごとに繰り返される「ひのえうま」1966年の大出産減はマスコミの影響が大きかった!
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1967年、ひのえうまが明けて結婚ラッシュに。写真は新婚旅行に向かうカップルの見送り(写真・共同通信)
1966(昭和41)年は、何事もなければ約177万5000人の赤ちゃんが生まれる想定でした。しかし、実際の出生数は136万974人ですから、約41万4000人少なかったということになります。この年に赤ちゃんを授かるはずだった夫婦のおよそ4分の1(約23%)が、出産に至らなかったのです。
これが一時的な出生減「ひのえうま(丙午)」の名で知られている現象です。
ひのえうまというのは、迷信のために赤ちゃんを産むのを控える人が多かった年のことだ、というのは若い人たちでも聞いたことがあると思います。
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戦後日本の高度経済成長期は、1955(昭和30)年から1973(昭和48)年あたりだとされます。その只中、新幹線や高速道路が整備され、テレビのカラー放送が視聴され始め、アメリカではNASAが月面着陸を目指してアポロ計画を進めている……そういう年に、暦に由来する忌事(いみごと)という何とも時代がかった理由から、この昭和のひのえうまでは、出生数が人口統計をとり始めた明治以降、最低を記録したのです。
この年に生まれた赤ちゃんの数は、前述のとおり、136万974人。しかし翌年には、出生数は約57万5000人増と回復し、その人口規模で団塊ジュニアへと続いていきます。
ひのえうまの出生減は、60年ごとに繰り返されてきたものと考えられがちです。けれども、人口ピラミッドにここまで深い切り欠きを残すほどのインパクトがあったのは、じつはこの昭和のひのえうま一度きりなのです。
■女性誌から男性週刊誌まで
出産という事柄の性質を考えると、女性誌がどのように報道していたかはとりわけ重要です。これをみると、前年1965(昭和40)年の年明けから、各誌において「ひのえうま出産」がさかんに取り上げられ始めています。
なかでも注目すべきは、『ヤングレディ』に掲載された「問題特集」です。講談社が発行していたこの雑誌は、芸能人の話題などを主たるコンテンツとする、若い主婦層向けの週刊誌でした。
そこでは、「60年に1度の危険」「来年赤ちゃんを産むあなたに警告します!」「丙午の女の赤ちゃんを産んだらたいへん」「あなたの悩みを解決する受胎相談」などのセンセーショナルな見出しで、8ページにわたる特集が組まれています。
《古くから問題視されている丙午の年が実は来年来るのです。ですから、ことし結婚する人は、順当にいけば、来年の厄年に赤ちゃんを産むことになるでしょう。それが男の子ならともかく、女の子を産んだらたいへんです。その子は一生、丙午という烙印を背負って、生きてゆかねばなりません。(中略)
明治39年の丙午年に生まれた女性が、結婚適齢期に達した大正末期から昭和初期にかけて(中略)重大な社会問題に発展したことがあったほどです。このようなことが、20年後のわが子の身にもふりかかる……としたら、これから結婚するあなたは、よほど真剣に考えねばなりません。》(『ヤングレディ』1965年1月25日)
この特集では、迷信の由来、明治のひのえうま生まれの著名女性たちのコメント、オギノ式避妊法の解説、男女の産み分け方などが紹介されています。
さらに、「結婚前後の女性の雑誌」と銘打って、当時光文社から刊行されていた月刊誌『二人自身』では、前述の『ヤングレディ』と同時期、1965(昭和40)年1月号において、目前に迫ったひのえうま出産を危惧する読者投稿を取り上げ、明治のひのえうまの女性たちを例に出すなどして、「迷信を信じるな」という解説がなされています。
続く3月には『婦人倶楽部』で、ひのえうま迷信の解説記事、5月には『主婦と生活』において、ひのえうまを危惧する取材記事に対する、「若い夫婦よしっかりしなさい」という心理学者望月衛のコメントが掲載されています。『主婦と生活』では、12月号でも、ひのえうま現象を取り上げた記事が掲載されており、『婦人生活』の12月号にも「丙午に子供を生む」という特集記事をみることができます。
家庭向け総合生活雑誌では、『太陽』1965(昭和40)年3月号に、ライターの小沢信男による「ひのえうま盛衰記」というひのえうま迷信の概説が掲載されています。『暮しの手帖』では、同年1月、2月、4月刊行の各号において、信ぴょう性を否定しつつも、迷信の影響を危惧する記事や読者投稿がみられます。
さらに、男性読者を想定した大衆週刊誌においてさえ、「いまなら間に合います――女児がほしけりゃ3月26日までにという“ヒノエウマ”迷信」(『週刊サンケイ』1965(昭和40)年3月1日号)をはじめ、『週刊現代』、『週刊平凡』で、それ以前の年にはない、ひのえうまにまつわる記事を確認できます。
1966(昭和41)年に入ってからは、『二人自身』1月号に「結論! ひのえうまはまったく心配ありません」という打消しの記事がみられます。その後もひのえうま報道が散見されますが、この年4月以降の報道は、妊娠期間を考えると、出生減には影響しなかったものと思われます。
当年後半になると、月次出生数が例年よりも大幅に少ないことが驚きをもって新聞紙上を賑わせ始めます。各誌は、産科がいつもの年ほどは混み合っていないことや、この年の避妊具の売れ行きが良かったことなどを報道しています。
興味深いのは、『週刊新潮』や『婦人生活』において、この年の半ば以降には「ひのえうま解禁」なる言葉を複数件確認できることです。「解禁」というのは、裏を返せば、妊娠に至るような行為が、ある意味「禁じられている」と社会一般にみなされていた、ということに他なりません。
そして年末には「ヒノエウマにしても異常 赤ちゃん50万人も減る」(読売新聞12月25日)、「生きていた『丙午』 出生、50万人も減る」(朝日新聞12月25日)と、厚生省(当時)が発表した予想外に少ない出生数が報じられ、翌1967(昭和42)年には、新生児数が急回復したことを伝える記事をみることができるのです――。
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以上、吉川徹氏の新刊『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(光文社新書)をもとに再構成しました。さまざまな都市伝説がささやかれたひのえうまは、実際にはどのようなものだったのか。日本だけで生じた特異な出生減を読み解きます。
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