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世界一となった「ホンダジェット」本田宗一郎の夢だった!

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2018.03.04 20:00 最終更新日:2018.03.04 20:00

世界一となった「ホンダジェット」本田宗一郎の夢だった!

『ホンダジェット(写真:AP/アフロ)』

 

 ホンダの子会社「ホンダ・エアクラフト・カンパニー」が製造している「ホンダジェット」の納入数が43機(2017年)となり、小型ジェット機カテゴリーで第1位となった。

 

 ホンダジェットは、2010年12月、テスト飛行に成功し、2015年12月10日、アメリカ連邦航空局(FAA)から機体の型式証明を取得した。

 

 いったい、なぜ自動車メーカーのホンダが小型ジェット機の製造に乗り出したのか。実は、ホンダ創業者の本田宗一郎は、長らく「空飛ぶクルマ」というアイデアを考えていた。

 

「自動車というのは道路という制約があるんだな。デコボコの道路でも平らに走らないといかんし、お客が疲れないように静かに乗らないといかん。走れば走るほど広い道路を作らなければいけない。いろんな制約があるわけですね」

 

 本誌は本田宗一郎のインタビューが収録された録音テープを独占入手している。経営評論家の故・梶原一明氏が、自宅の段ボール箱に保管していた取材テープである。1980年11月、1981年4月、1982年12月の3本で、そのほとんどが未公表のものだ。

 

 本田宗一郎は、自動車は遅くてかなわないという思いを持っていた。道路の最大の問題は渋滞である。道が混めば予定どおりに目的地には到着しない。だからクルマはダメだという意見に対して、次のように語る。

 

「みんな言うんだよ。『こんなに混んでたんじゃしょうがない。羽を出して、上でぐるぐる回って、ほかの車を追い抜けないだろうか』って。みんな考えることは一緒なんだよな。でも、もしそうなったら、ものすごい事故が起こるに決まってる」

 

 言うまでもなく、宗一郎の発言は飛行機を想定している。自動車は道路があってスピードの限界がある。しかし、もし上空まで使えれば、いくらでも速い車が作れる。ただしそれにはきっちりとしたルールが必要、ということだ。

 

 この空飛ぶクルマというアイデアを、宗一郎は子供のころから考えていた。宗一郎の原点は、8歳のころに初めて見たクルマと、11歳のころに初めて見た飛行機だった。

 

「11歳のころだよ。親に内緒で(曲芸飛行の)飛行機を浜松まで見に行ったんだ。フレームが三角の大人用の自転車で一晩かかってね。帰ったら親父にこっぴどく怒られちまったけど(笑)」

 

 青っぱなで袖をテカテカにしていた浜松郊外の “悪ガキ” がある日、飛行機に出会った。それがいまに続く数々の「ホンダ伝説」の始まりだった。

 

 実際、宗一郎は終戦直前の1944年、それまで手作業で1本作るのに1週間かかっていた航空機のプロペラ切削作業を自動化することに成功している。わずか30分で2本も仕上げることができる新しい切削機は、軍需省からの表彰も受けている。

 

 本田宗一郎の口癖は「やらまいか(やってみようじゃないか)」だった。ダメかもしれないけれど、コツコツ積み重ねていけば、いつか報われる。そのDNAが、ホンダをホンダたらしめ、ついに「ホンダジェット」に結びついたのだ。

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