
壮絶な虐待経験を語る塚原たえさん(写真・金谷千治)
「父親に罪を認めさせるということが、目的です。私たち3きょうだいの尊厳を守るための裁判なので、賠償金の問題ではありません。泣き寝入りは絶対にしません」
7月上旬、埼玉県・ふじみ野市で本誌の取材に答える女性の名は、塚原たえさんだ。現在54歳の彼女は穏やかに話し始めたが、その目には揺るぎない“怒り”と消えない“悲しみ”が宿っていたーー。
性被害をめぐる法整備がまだまだ不十分だった40年以上前、彼女を苦しめたのは実父から繰り返される凄惨な性暴力と虐待だった。
父の矛先は11カ月下の弟、そして4歳下の妹にも及び、最愛の弟は29歳という若さで自ら命を絶った。50歳で複雑性PTSDと解離性症状を診断された塚原さんは2023年、各メディアで実父を実名告発、民事訴訟に踏み切った、そして7月29日の初公判を目前に控えた彼女に、その壮絶な半生と、訴訟に懸ける思いを聞いた。
「最初に性虐待を受けた記憶があるのは、小学3年生の時です。自宅にいた父から、膣に鉛筆や指を入れられたんです。その時の光景は、部屋の間取り含めハッキリと覚えています」
塚原さんは山口県で生まれ育った。家族は父、母、弟、妹の5人暮らしだった。
「私が1歳ごろまで、父親はおもちゃを販売する会社の社長で、周囲から私は『社長令嬢』と言われていたそうです。引っ越しの際には大きなシャンデリアがあるお家を見に行ったのも覚えています。しかし、そのうち事業がうまくいかなかったのか、借金により家財道具には差し押さえの札が貼られるようになり、父親は『夜逃げするぞ』と言い、何度も引っ越しました。結局、働かなくなった父親の代わりに母親が旅館の仲居をして家計を支えました」
物心ついたときから、家庭の中は常に暴力で支配されていたという。
「父親は母親に対するDVも激しくて、殴る蹴るは日常でした。ビール瓶が飛んでくることもあり、母が口を切って救急車で運ばれたこともあります。
私と弟は『行水』と称して、何度もお風呂の水に顔を力任せに押し付けられたり、裸にされて部屋の鴨居に吊るされたりしました。何より辛かったのは、父親の命令で、私と弟でお互いを洗濯ホースやベルトで殴らされたことです。
でも、お互いに痛いのが分かるから、本気では叩けないんです。そうすると父親が、『本気で叩かなかった方を叩く』と言うので、『本気でやらないと自分がやられちゃうよ』という気持ちを目で伝え合い、殴り合うんです。そして殴られて裂けた傷のなかに、父親がお酢や醤油を垂らしてくるんです。染みるからさらに痛いんですよね。
小学校高学年にもなれば、体つきも変化するし、弟と言えどお互いの裸を見たくないし、見せたくもない。でも、あの当時は、本当に“無”になるしかなかったという感じでした。感情を持ってはいけないという感じですよ。もしもありのままの感情を持ったら、多分、自分が死ぬか、父親を殺すか、どちらかだったと思います」
家庭内で暴力が完全に日常化するなか、塚原さんが小学6年生になると、性加害は“決定的な一線”を越えた。父親から本番行為を強要されたのだ。しかも、その犯行は信じられないことに母親の真横でおこなわれた。
「ある日、私に初潮がきたんです。なぜか父親は妙に機嫌が良かったのを覚えています。その日、父に挿入されました。隣には母親がいましたが、『何やってるの』と笑うだけで、止めようとはしませんでした」
その後、父親から定期的に強姦されるようになり、中学校に進学しても、学校に思うように通うこともできなかった。
「父親に制服の胸の部分を切られたり、教科書や本を水浸しにされたりしていました。恥ずかしいから、制服は自分で縫い合わせるしかなかったですね。その当時は、担任の先生も男の先生でしたし、毎日みんなと同じように通うことができなかったので、学校ではすでに仲良しグループができてしまっていて、誰かに話して助けてもらうという状況ではありませんでした。
とくに驚いたのが、中学2年生の時に周りの女の子が『昨日彼氏とCまでした〜』と“恋バナ”に花を咲かせていたことでした。『え、私は父親となんだけど』と思って、そこで自分が異常な状態だと分かったんです。今では死語ですが、当時は彼氏など異性との接触を表す表現として、キスをA、ペッティングをB、いわゆる本番行為をCとして会話で使われていたんです」
母親の存在も塚原さんの“無力感”を高める原因となった。
「母親は私がレイプされていることを知っていたのに、ある日突然家を出て行っては帰ってくる、ということを繰り返しいました。要するに自分だけ逃げてしまって助けてくれなかったんです。『大人ってこういうものなんだ』『誰かに話したところで、誰も助けてくれないんだろうな』という諦めが生まれましたね」
一緒に虐待を受け、耐え忍んできた弟とは、中学2年生の頃には離れ離れになってしまった。
「弟も、父に“レイプ”されていましたからね。口でやらされることもありましたし、肛門も使われていました。プライドをずたずたにされて、本当につらかったと思いますよ。私たちは何かあると、よく裸のまま家の前に放り出されいました。私は怖くて縮こまってその場から動けなかったんですが、弟はそのまま近所の洗濯物を窃盗して逃げたりしていました。もちろんおカネはないから、そこから無賃乗車するんです。とにかく遠くまで逃げたいという一心なのか、山口県で暮らしていたのに富山県とかまで逃げるんですよ。
そのたびに保護されて、児童相談所へ迎えに行くということを繰り返していました。そういう積み重ねで、公的には“非行少年”という扱いになってしまったんです。それで埼玉の更生施設に入りました。本当の原因は虐待なんですけどね」
中学3年生では、さらに塚原さんを苦しめる出来事が起きる。
「ちょうど受験の時期でした。母親と父親が性行為をしている後ろで、受験勉強をしていたんです。もちろん行為の“音”だって聞きたくないですよ。ところが、その時に父親に呼ばれ『裸になれ』と指示をされたんです。最初は『嫌だ』と言ったんですけど、『いいから早く乗れ』と怒鳴られて……。
そのまま裸で母の上に乗らされて、胸を舐めさせられたり、“レズプレイ”をやらされました。母親はその時も笑っていて、助けてくれることもありませんでした」
母親はその数週間前に中絶手術をしたばかりだったという。父親は家族相手に一切避妊することがなく、結果的に母親は合計11回中絶をしており、手術に塚原さんが立ち会うこともあったという。
「父親は車に乗せて、私を病院へ一緒に行かせるだけでした。その当時、母親と父親は法的には離婚していたんですよ。わざと離婚して、母子手当を受け取るのが目的だったんでしょう。シングルマザーということにしていましたが、付き添いは必要なので私が行っていました。父親は女性の体の負担とか、気持ちを何も考えていないんだと思います。中絶費用も母親が工面していました。
母親は、間違いなく親として最低だと思います。でも、父から長年DVを受け、逆らえない状況だったこともわかっていました。中学2年生の時、母親がキッチンで、仲居さんの着物の腰紐みたいなもので、自分の首を絞めて死のうとしていたのを目撃したこともあります。慌てて私が声をかけて止めましたが、その時の光景がどうしても引っかかっていて。単純に『もう2度と付き合いたくない』とは言えないんですよね。母親も搾取されていた側だと思うのです」
そんな母親はやがて不倫相手を見つけ完全に蒸発。父は長距離トラックの運転手として東京へ出稼ぎへ行くようになり、塚原さんは高校を退学させられて、父に同行させられた。当時、山口県の祖母宅に預けられていた妹も、その後父親によって東京へ連れ戻されたが、その時、最悪の事件が起きる。父親は、塚原さんが心の支えにしていた妹にまで、手をかけたのだ。
「妹は私たちに比べてそれほど深刻な性虐待は受けておらず、私は自分が家を出ると矛先が妹に向いてしまうと思ってずっと我慢していたんですよ。どうしても妹だけは守りたかったんです。
15歳で私だけ東京に連れて来られた時は、妹は祖母のところにいたので、私が家を出ても安心だと思っていました。だから1人で警察署に保護を求めて駆け込みました。一時は保護所に入れましたが、結局父親に連れ戻されてしまいました。
それからしばらくして、妹も東京に来ることになりました。私が16歳、妹が12歳の時のことです。そして東京の家で、姉妹同時に父親にレイプされたんです。私たちは裸にさせられ、四つん這いになって並べさせられました。そして後ろから、交互に父親が挿入するんです。本当に悪夢のような経験です。その時、完全に吹っ切れたんですよね。『もうこの家で我慢する必要はない』『妹もやられるんだったら、この家にいる意味はない』と決意して妹を連れて警視庁へ駆け込みました」
保護された姉妹は、東京・清瀬市の児童養護施設や自立援助ホームで生活を始めた。そこで塚原さんは、その後の人生を大きく変える人物と出会う。現在、結婚39年目を迎える8歳年上の夫だ。夫との出会いの話になると、
「子どもたちに『気持ち悪い』って言われるくらい仲が良くて(笑)。結婚だけは成功したなって思います」と顔を綻ばせた。
「当時は“施設の子ども”って今よりもイメージが悪く、関わりたいと思う人は少なかったと思います。でも、夫はそういうことを全く気にしない人で、施設にいる友人のところへ遊びに来た時に私と出会ったんです。でも、最初は本当に印象が悪くて。『あんた目細いね』なんて言ってきて、“何この人”なんて思いましたよ(笑)。思ったことをそのまま口にする人なんです」
そんな率直な性格だからこそ、塚原さんの心は少しずつほぐれていった。
「『たえも思ったことを言っていいんだよ』と言ってくれて、初めて自分の感情を出してもいいんだと思えました。怒ることも、泣くことも、笑うことも、それまでの私は全部押し殺して生きていたので……」
交際が始まると、塚原さんはすぐに現在の夫と同棲を始めた。
「そこにまた父親が来たんですよ。私が1人でいる時に拉致されて、ラブホテルへ連れて行かれたこともありました。それからは、夫のお母さんが自宅で匿ってくれたんですが、父親は私たちをつけていたのか、それもバレてしまって。
これは後から聞いた話なんですが、夫のお母さん、つまり義母が父親に呼び出されて、清瀬の商店街の喫茶店で話し合うことになったことがあるそうです。そこで、お義母さんさんは『あんたにたえは返さない。たえはうちの娘だから』と啖呵を切ってくれて。じつの父や母よりも、確かな愛情を受け取ったという意味では、本当のお母さんでした。私はもう、義母のことを『お母さん』としか思ってないですね。夫が子供のころには、清瀬で1、2軒しかないバーを経営していた方で、肝の据わった女性でした。
私と死んだ弟の違いは、そういう人と出会えたかどうかだったと感じます。弟が死んだ時も夫がいなかったら後に続いていたと思います」
その後も数々の不幸を乗り越え、ついに塚原さんは40年の時を超えて父と闘う覚悟を固めたというわけだ。
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