
前日銀総裁の黒田東彦氏(左)と東大准教授の斎藤幸平氏(写真・長谷川 新)
日本銀行総裁を歴代最長の10年務め、「異次元緩和」で日本経済を牽引した黒田東彦氏。その激動の軌跡を記した回顧録『独白——デフレとの戦い』の出版にあたり、気鋭の“マルクシスト”斎藤幸平氏を迎えて、特別対談を決行。「資本主義の番人」として決断を下し続けた黒田氏に、脱成長とポスト資本主義を唱える斎藤氏が挑む。異次元緩和の成否、異常な円安、AIと労働の未来、そして少子高齢化の正体——。立場も思想も対極にある2人が、日本経済の「現在と未来」をめぐり、火花を散らす。
■「アベノミクスは正しかった」の中身
斎藤 黒田さんの在任期間(2013年3月〜2023年4月)とアベノミクス(2012年12月〜2020年9月)は重なります。巷では、日銀は安倍(晋三)さんの言いなりになって、独立性を脅かされているというイメージがありました。でもご著書を読むと、実際はそんな介入はなく、デフレを脱却しなければ、という使命感に支えられてやって来られたのだと、実態を知ることができておもしろかったです。いちばん印象的だったのは、何度も出てくる「アベノミクスは正しかった」という断言です。その一方で、実質経済成長率2%の目標は、金融緩和だけでは達成できなかった、とも繰り返し書いてある。2%は達成できなかったけれど成功だった、というアンビバレンスですよね。結局、どこが成功だったとお考えですか。
黒田 日本経済は15年間、デフレでした。そのうち12年は、物価が下がるか横ばいだった。平均の下落率は年0.2%でマイルドに見えますが、戦後の先進国に例を見ません。アメリカの人には「緩やかだがしつこいデフレ」だと説明してきました。
前年比上昇率2%の物価安定目標は、2013年1月に白川(方明)総裁の下で、すでに決まっていました。あとは、それをどう早期に実現するかが課題でした。副総裁や審議委員だけでなく、日銀の担当理事やスタッフも含めて、3週間ぐらい議論しました。経済モデルを使い、2年でマネタリーベース(市中に出回る現金と金融機関が日銀に預けている当座預金の合計)を2倍にすれば、2年程度で2%に達するだろうと。4月の決定会合で、全員一致で決めました。私が10年間、総裁をやりましたが、全員一致はあのときだけです。
その後、2014年に消費税が5%から8%に上がるなど、紆余曲折はありました。ただ10年間の平均で見ると、成長率は1%ぐらい。日本の潜在成長率が1%弱ですから、それをやや上回る成長が続きました。失業率は下がって、完全雇用とされる3%を下回り、2%台の「超完全雇用」がずっと続いた。それなのに、賃金と物価の好循環にはなかなかならなかったんです。
2022年にロシアがウクライナに侵攻して原油価格が上がり、物価が高騰した。それでも私が2023年に任期を終えたとき、物価が2.5%、3.2%になっていましたが、賃金は追いつかなかった。だから金融政策を転換できないまま、植田(和男)総裁にバトンを渡すことになりました。好循環が始まったのは2024年です。
斎藤 つまり、量的緩和だけではデフレは脱却できなかったけれど、やっていなければもっとひどいことになっていた。その意味での成功、ということですか。
黒田 そう思います。やらなければ、デフレが続いていたでしょう。デフレ期の成長率は0.5%ですからね。成長率が1%近くまで上がったのは、アベノミクスのポジティブな面だと思います。
■行きすぎた円安
斎藤 好循環が始まったということですが、自分の生活やまわりを見ると、本当かなという気がしてしまうのですが……。
黒田 データを見ると、名目賃金は上がっていて、2025年からは実質賃金もプラスです。植田さんは非常にうまく正常化を進めておられる。急にやりすぎるとまずいし、かといって、物価がすでに目標の水準に達しているのに、いつまでも大規模緩和を続けるのは適切ではない。非常に慎重に進めておられると思います。
斎藤 ただ、その要因は、内需がよくなってインフレになったというより、ウクライナ戦争や石油高、つまりコストプッシュ型ですよね。
黒田 ただ、それが賃金と物価の好循環につながったのは、経済が立ち直っていたからです。企業収益も伸びていますしね。デフレ期のような成長率0.5%、失業率4.6%の状況では、到底そうはならない。かつての石油ショックのように、成長率はマイナスなのに物価だけが上がって終わっていたはずです。
斎藤 今後は金利が上がっていきます。そこで心配なのは、高市(早苗)さんの積極財政で国債をたくさん発行されると、利払いが重くのしかかって、財源を食いつぶしてしまうのではないかということです。
黒田 それは財政の問題で、金融とは別の話です。アベノミクスの下でも、財政が大きく拡張したわけではありません。たしかに債務も利払い費も増えましたが、債務の圧倒的な部分は、それまでに何十年とかけて累積されたものです。
斎藤 では、いまの円安はどうでしょう。民主党政権のころは記録的な円高で、アベノミクスで円安が進んで、輸出する大企業にはいいじゃないかという話があった。でも日本はエネルギーも食料も輸入しています。いまの円安の弊害は、アベノミクスの弊害とはいえないのでしょうか。
黒田 為替はいろんな要素で動きます。安倍政権の前は1ドル70円台まで行きました。あの円高で、日本経済は大きなダメージを受けましたし、デフレも悪化した。それをアベノミクスで直したわけで、ノーマルな水準から見て、すごい円安というわけではなかった。ただ、いまはさすがに行きすぎています。
斎藤 アベノミクスで金利を下げすぎて、なかなか正常化できず、アメリカの金利のほうが高いからだといわれますが。
黒田 金利差の動きに、そんなにきれいに対応しているとは思えません。高市政権ができて「責任ある積極財政」と言ったとたんに、ドーンと安くなったんです。その後はグラグラしている。金融政策で円安になったわけでもない。財政が悪化すると見られて、円安と長期金利の上昇が起きたんです。だから、金利を上げれば円安が止まる、という話ではありません。政府が規律ある財政運営を宣言し、きちんと実行しないといけない。
■日本が目指すべき道
斎藤 実質賃金を上げていくことが今後の重要課題です。アベノミクスは金融政策が中心でしたから、円安になって輸出企業の株価は上がり、日銀も株をたくさん買った。でも、その恩恵はトリクルダウン(富が富裕層から低所得層に滴り落ちる)しませんでした。企業は内部留保をため込み、本来ならインフラや開発にもっと投資できたはずなのに、設備投資は増えませんでした。
黒田 ようやく賃金と物価の好循環が起こったのは、2024年から2025年にかけてです。ただ、これだけ利益が出ているのに、投資をしない。企業には1980年代の過剰投資が頭にあるんですね。いまの経営者は、その後のデフレや低成長しか経験していない世代です。でもいまは、バリバリ投資してもらっていい。世界を見ても、AIやITに巨額の投資をしているのは、アメリカと中国だけです。
斎藤 しかしアメリカは、かなり特殊な国です。イノベーションは起きていても、他方でものすごい格差があり、それがトランプ政権につながったり、社会主義の台頭を招いたりしている。我々が本当に見習うべきなのは、アメリカなのかという問題があります。
黒田 日本もヨーロッパも人口はマイナスですが、アメリカは毎年300万人ぐらい、人口の1%ほどが移民で入ってくる。それが社会のダイナミズムになっています。私は日本ももっと移民を受け入れたらいいと思います。アメリカのダイナミズムは魅力的です。
斎藤 黒田さんは、けっこうアメリカがお好きなんですね(笑)。意外で、おもしろいです。日本はヨーロッパと状況が似ていて、高齢化が進み、経済もかつてのような勢いはない。これはある種の資本主義の成熟段階だと思います。
デフレはたしかによくないですが、それなりにみんな幸せだったから、30年、こういう状況が続いた面もある。日本には自然、治安や平等、社会連帯といった、GDPに直接、反映されないものがあります。いま、私たちは成長を目指すべきなのか。気候変動や自然環境、格差といった問題を、さらなる成長で乗り切れるのか。私がずっと抱えている疑問です。
黒田 それは分かります。ただ、15年のデフレがよかったという話にはなりません。低成長で国民がぜんぜん豊かにならないということではなくて、ノーマルな成長と完全雇用の下で、生活水準が上がっていくのが望ましい。ただし、自然資源を使いすぎて気候変動を招いたら、元も子もありません。国土が狭い日本で、化石燃料をどんどん燃やすのはまずいから、風力、水力、地熱、水素など、CO2を出さない形で電力を賄うことを考えないといけない。
■AIは「成長」の救世主になるのか
斎藤 これまでの経済は、人口が増えていくことが前提でした。でも日本も、ヨーロッパも、中国も、人口が減っていく。そのなかで、そもそも成長することが可能なのか。
黒田 人口が減れば、需要は増えにくく、労働供給も増えません。人口の減る分に相当するぐらい、成長率が下がるのは仕方がないでしょう。ただ、ひとり当たりの所得は増やしていかないといけない。そのためには、AIなどの技術革新とともに経済成長が必要です。
斎藤 AIによる情報革命が起きた先、イーロン・マスクのような一部の人たちがAIを独占して富の集中が進み、庶民は仕事を失っていくというディストピアになるのではと、私は危惧しています。
黒田 それは、資本主義か社会主義かではありません。AIの発展を野放しにすると、当然起こりうる問題です。技術には必ずマイナス面があるので、それをどう規制するかということでしょう。ただ、それは日銀にできることではなく、政府の仕事です。
斎藤 本書では日銀の役割は、割と控えめに書かれていると感じました。中央銀行というと、ものすごいパワーがあるんじゃないかと思っていましたので。
黒田 中央銀行はそういうものです。資本主義国で中央銀行を政府の一部にすれば、いろんな財政のツケを中央銀行に回され、結局インフレになる。その経験から、みんな中央銀行を政府から独立させてきた。歴史の教訓ですよ。
斎藤 私はその歴史の教訓を無視し、もう一度、政府と一緒になって行政を担ったほうがいいんじゃないかと思います。
■少子高齢化は資本主義のせいか
斎藤 人口が減っていくこと自体は、もう歴史的必然なのでしょうか。
黒田 いや、少子高齢化は、資本主義とはぜんぜん関係がないです。中国もロシアも、超少子高齢化社会です。発展して所得が上がってきたときに、結婚や出産が遅くなって、子どもが1人か2人になる。それはどこでも見られる現象です。
斎藤 日本の場合は、そこに超低金利でタワマンバブルが加わり、みんな70平方mもないマンションを買うようになったせいで、子どもを2人持てないという問題が加速している気がします。
黒田 1世帯当たりの住宅の広さは、減っていません。タワマンが狭いから子どもを作らないというのは、統計的にはぜんぜん立証されていない話です。
斎藤 ただ、みんなフルタイムで働かなきゃいけないし、2人は作れない、子どもを私立に行かせなきゃいけない、というマインドがどんどん強まっています。子育てはコスパがすごく悪いので。資本主義のなかで、私たちはコスパマインドを刷り込まれているんじゃないでしょうか。
黒田 資本主義かどうかとは関係ない。社会主義でも問題ですよ。中国でもそうです。少子高齢化は、経済政策の問題というより、社会の問題です。金融政策で、どうにかなる話ではありません。
成長、自然、連帯。真っ向からぶつかり合う2つの主張が、日本人に「真の豊かさとは何か」という問いを鋭く突き付けている。
取材・文/鈴木隆祐
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