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米兵の前でロックを「玉城デニー」歓楽街で過ごした高校時代

社会・政治 投稿日:2018.10.23 16:00FLASH編集部

米兵の前でロックを「玉城デニー」歓楽街で過ごした高校時代

高校時代(親泊功氏提供)

 

 10月16日、県知事就任後初の議会に臨み、所信表明を行った玉城(たまき)デニー知事(59)。急逝した翁長雄志前知事の遺志を継ぎ、あらためて辺野古への移設反対を表明、日本政府を批判した。
 いったい、デニー知事はどのような人生を歩んできたのか。

 

 

「沖縄市から知事を!」
 白黒のビラがまだ一部の電柱に残っていた。沖縄県第二の都市・沖縄市。中心となる旧コザ市は米軍嘉手納基地の門前町である。

 

「過去の衆院選挙では、ほとんど、話してこなかった」(デニーの秘書)という生い立ちを、知事選では自ら積極的に支援者に語りかけた。

 

 デニーの父親は名前もわからない米海兵隊員。母親は飲食店に住み込みで働き、母の友人が育ての親。幼少期を送ったのは、旧コザ市から十数キロ東、現うるま市の集落だ。

 

 コザの街は現在こそ下りたままのシャッターが目につくが、米軍統治時代は米兵のドルで潤う県内一の歓楽街だった。軍の横暴に群衆が蜂起した「コザ暴動」でも知られる。1970年12月20日未明、小さな交通事故をきっかけに路上で約80台の車を焼き払った事件だ。

 

 デニーは当時11歳。たまたま市内に実母といて、翌朝には現場を見た。
「また戦争だ、どうするんだろう」
 後年、そう不安を振り返っている。

 

 ベトナム戦争中、死と隣り合わせの兵士らは、このコザで連日痛飲し、不安を紛らわした。バーでは下手なバンド演奏にはビール瓶が飛ぶ。

 

 そんななか、コザからは「紫」「コンディショングリーン」など一流のハードロックバンドが生まれた。現在も紫メンバーで、ライブハウスを持つドラマー・宮永英一氏が言う。 

 

「米兵にバカにされないよう俺たちは音楽で必死に闘った。でも、認められると友情も生まれてね。客だった米兵の戦死を聞くたびに、堪らない気持ちになったものだった」

 

 デニーが旧コザ市にどっぷり浸かるのは高校時代からだ。市内の高校生で作るロックバンドにボーカルとして誘われた。ベトナム戦争後の1970年代後半に、そのバンド「ウィザード」は活躍した。

 

 ベーシストだった現沖縄市役所職員の親泊功氏が述懐する。
「デニーはロックが本当に好きだったんでしょう。正直、歌はあまりうまくなかったけど、一生懸命練習しました」

 

 練習はほぼ毎日。ひとり郊外から通うデニーのため仲間はときにバス代をカンパしたり、バイクで送迎したりした。

 

「ライブを重ねるうち、米兵の顔見知りも増えました。ろくに学校も行っていない感じだったけど、みな純朴な田舎の青年たちでした」(親泊氏)

 

 デニーの人格は、そんなバンド仲間や米兵らのいる空間で、形成されていった。

 

 ラジオパーソナリティ出身のデニーはソフトな気遣いの人だ。沖縄市でカフェシアターを営むタレントの宮島真一氏が言う。

 

「コザの人はなんでもウエルカム。アメリカ人もいて、とにかくみな、周囲とのコミュニケーション能力が高いんです。戦後の夢と欲望が渦巻いたこの街から今回、いかにもコザらしい人が知事になった。わくわくする気分です」

 

 デニーは「ルーツは2つあるけれど、自分は生粋のウチナーンチュ(沖縄人)」と語っている――。

 

取材・三山喬
(週刊FLASH 2018年10月30日号)

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