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ポスト安倍の声も…「令和おじさん」菅義偉官房長官の一代記

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2019.05.01 06:00 最終更新日:2019.05.01 06:00

ポスト安倍の声も…「令和おじさん」菅義偉官房長官の一代記

首相官邸HPより

 

 菅義偉官房長官の注目度が急上昇している。4月1日、新元号令和」の発表を行ったことで、「令和おじさん」として一躍、人気者に。産経新聞とFNNの合同調査では、次期首相候補として4位の座を獲得した。

 

 官房長官としての在任期間は6年4カ月超と歴代最長。常に安倍内閣の危機管理を担い、影のように支える。そんな菅氏は、いったいどのようにして政治家の道を志したのか。かつて本誌記者は菅氏本人と、菅氏の故郷を取材している。

 

 

 1967年3月、18歳の菅氏は、秋田県から集団就職列車に乗って上京した。ホームにはまだ雪が残っていた。菅氏本人が本誌にこう語っている。

 

「青雲の志なんてたいそうな話じゃない。どんよりした雲。降り積もる雪。農家の長男だから農業を継がなければならない。とにかく田舎から逃げ出したい、その一心。家出同然だった……」

 

 湯沢市秋ノ宮地区。宮城県境に近い山あいの地は、冬は2mの雪に覆われる県内でも有数の豪雪地帯だ。1948年12月6日、菅はこの地で生まれた。

 

 今は統廃合されたが、通っていた秋ノ宮小学校・中学校は家のすぐ先にあった。中学は野球部で、サードで1番打者。野球部で菅氏と一緒だった同級生の由利昌司氏が本誌にこう語っている。

 

「義偉君はバットを投げ出すような変わった打撃フォームだった。先生にちゃんと構えて打つように言われても、自分はこっちのほうが振りやすいからと、けっして考えを曲げなかった。トップバッターで出塁率も4割近くあったから、結局、先生もあきらめて何も言わなくなりましたね」

 

 高校は県立湯沢高校に進むが、学校まで遠くて部活は続けられなかった。

 

「高校の同級生で義偉くんのことを知っている者は少ない。彼が政治家になったとき、『菅ってどんな奴だ?』と聞いた奴が、卒業アルバムを見たら同じクラスだったというエピソードがあるくらいです。当時は、誰も彼がこんな大政治家になるなんて思ってなかった」(由利氏)

 

 高校卒業後に上京し、板橋区の段ボール工場に勤務するが、わずか2カ月で辞めてしまう。「現実は甘くなかった」と菅は多くを語らないが、その後は生活との戦いが待っていた。

 

 朝は築地市場で働き、夜は新宿の飲食店で皿洗い。その合間に受験勉強を続け、上京して2年後、法政大学法学部に入学する。選んだ理由は「授業料が最も安かった」からだ。

 

 そして、入学後も、ガードマンや新聞社の雑用、カレー屋などのアルバイトで生活費と学費を稼いだ。大学時代、唯一打ち込んだのが空手だった。アルバイトに追われながら三段の段位を取っている。

 

「自分を厳しい状況におきたかった。空手からは礼節や先輩、後輩の序列を学びました。そして我慢することを覚えた。練習はすごく厳しかったが、どんなにきついことも時間が来れば終わるということを知りました。アルバイトばかりの大学生活でしたが、人生修業はやった気がします」(菅氏)

 

 大学卒業後、電気設備の会社にいったん就職するが、自分が本当にやりたいことは何かをいつも思案していた。

 

「人生は一回きりだから自分の思うように生きたいと考えるようになったんです。それが政治の世界に入ることだった。政治は世の中の根幹だ。そこがいちばん面白そうだ。そして、日本を変えたいと思った」(同)

 

 大学の学生課とOB会を訪ね、「法政出身の政治家を紹介してください」と頼みこんだ。衆院議員の小此木彦三郎を紹介され、横浜の事務所で秘書の口を得る。11年にわたる秘書時代は書生のような暮らしだった。

 

「小此木さんは礼儀の厳しい人だった。箸の上げ下ろしから教えてもらった恩人です」(同)

 

 1984年、小此木が通産大臣に就任すると、菅は大臣秘書官に抜擢された。菅は、そこで初めて、本当の意味での政治の世界を勉強したという。

 

 そして1987年4月、37歳で横浜市議選に初出馬。選挙区には77歳の自民党の長老議員がいた。その長老は息子に後を譲り引退すると発表したが、その直後、息子が急死してしまう。

 

「非常に不遜なんですけど、それなら自分でも勝てると思って、出馬を決断するんです。もしかしたら自分は運が強いんじゃないかと思っていました」(同)

 

 ところが、長老が再び出馬すると言い出した。自民党横浜市連は、混乱を避けるため、菅に出馬を断念するよう求めたが、菅は頑として応じなかった。

 

「私にすれば『何だ?』という気持ちですよ。おかげでいじめられました。長老に逆らったという理由で公認ももらえず、選挙区には後援会長のなり手もいなかった」

 

 孤立無援の戦いは過酷だった。朝6時から夜9時まで、1日300軒、選挙までに3万軒を回り、その間に靴を6足履きつぶした。
 そして無事当選し、菅氏は政治家としての第一歩を踏み出す――。

 

 1989年、元号改正にあたって「平成」と発表した小渕恵三氏は、「平成おじさん」として知名度を上げ、結果的に首相にまでなった。だとすると、今回、「令和おじさん」として知名度を上げた菅氏に「ポスト安倍」として期待の声が高まるのも当然だろう。

 

 菅氏は、4月8日の記者会見で「『ポスト安倍』などまったく考えていない」ときっぱり述べているが、その心中はいかばかりだろうか。

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