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【1940年、幻の東京五輪】(4)札幌に敗退した「日光冬季オリンピック」

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2016.05.25 14:00 最終更新日:2016.05.25 14:00

【1940年、幻の東京五輪】(4)札幌に敗退した「日光冬季オリンピック」

札幌大会実行委員会の事務局に電話が架設されたことを報じる記事(1937年8月28日付け『北海タイムス』夕刊より)

 

 1937(昭和12)年6月10日の早朝、吉報が札幌に届いた。IOCワルシャワ総会で、冬季オリンピックの札幌開催が決定したのである。

 

 本来なら1936(昭和11)年7月末の東京開催決定のとき、同時に冬季大会の開催地も決まるはずだった。当時の慣例では夏季大会を開催する国が冬季大会も開催することになっていたからだ。

 

 ところが、なぜか1年後のワルシャワ総会まで結論は棚上げ。札幌開催の知らせは、じらされた末の朗報だった。

 

 札幌でのオリンピック招致の歴史は古い。1928(昭和3)年2月に昭和天皇の弟である秩父宮殿下が北海道を訪問して、北海道大学スキー部部長でもあった大野精七に、オリンピック開催を視野に入れたシャンツェ建設を提案したのが始まりだ。

 

 この提案を受け、大倉財閥の大倉喜七郎が私財を投じ、1931(昭和6)年に大倉シャンツェ(現在の大倉山ジャンプ競技場)が建設されることになる。

 

 こうした経緯から、札幌は古くからオリンピック開催を意識していた。それ故に、札幌は候補地として真っ先に名乗りをあげることになる。

 

 ただし、このときに開催に手を上げたのは札幌だけではない。他にも日光、霧ヶ峰、志賀高原、菅平、乗鞍が候補地として浮上してきた。なかでも日光はスケート連盟の強い支持を得て、札幌とほぼ拮抗する有力候補と見なされた。

 

 日光のオリンピック案は、客観的に見ても魅力的なプランに思われた。そもそも東京に近く、早くから外国人にも知られる行楽地であり、外国人観光客に人気の金谷ホテルもあった。

 

 また、雪質も良好で積雪量も多い。何より東洋第一と言われるスケート場「細尾リンク」があり、スケート競技についてのノウハウや経験が豊富である。スケート連盟が支持したのも、この点を重視したからだ。

 

 しかし、日光はスキー競技の経験は乏しく、この点がどうしても五輪開催の不安材料となった。結局は大倉シャンツェなどのアドバンテージを有する札幌に軍配が上がることになる。

 

 ちなみにこのとき脱落した候補地のうち、志賀高原、菅平などは、1998(平成10)年の長野冬季オリンピックの競技会場として「雪辱」を果たすことになる。

 

 こうして冬季五輪の開催都市となった札幌では、施設計画が動き出す。

 

 ところが、大倉シャンツェの存在こそが札幌のアドバンテージだったはずなのに、三角山の東面に国際的にも最大規模の新たなジャンプ台を建設する案が浮上。最終的には大倉シャンツェの改修などの現実的なプランに落ち着くものの、なぜか計画は奇妙に迷走し始めた。

 

 屋内外のスケート場についても、候補地が札幌市内の各地を転々。最終的には中島公園内に建設することが決まるが、混迷を重ねることになる。

 

 さらにボブスレー競技場は、当時の日本ではこの競技の経験が皆無だったこともあり、海外の専門家の判断待ちで決定は先送りになった。

 

 それでも1938(昭和13)年に入るころには、会場施設案はほぼ固まりつつあった。実は札幌冬季五輪の問題は、施設ではなく、そこでおこなわれる競技の方にあった。

 

 冬季五輪の札幌開催が決まった当初から、IOCと国際スキー連盟(FIS)との対立が表面化していたのである。スキー競技の選手には、スキー教師として身を立てている人が多い。しかしIOCは、スキー教師をアマチュアとは認められないと判断していた。

 

 これにFISは激しく反発。日本側は最終的には折り合いがつくことを期待しつつ、さまざまな打開策を考えていた。だが、双方の主張の隔たりは、いつまでたっても解消されることはなかった。

 


 

<著者プロフィール>

夫馬信一 1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『日本遺構の旅』(昭文社)、『ヴィンテージ飛行機の世界』(PHP研究所)など。今年1月発売の『幻の東京五輪・万博1940』(原書房)は、9年の歳月を費やし札幌、大阪、長崎など全国各地への取材を経て完成した。

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