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「一人時間差」攻撃がもたらした男子バレー初の金メダル秘話
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2016.08.13 09:00 最終更新日:2016.08.19 17:34
1964年東京五輪で、「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーが金メダルを獲得する一方、男子は銅メダルに終わった。女子バレーの祝賀会に男子陣は呼ばれず、「男子バレーが忘れ物にされた」と選手は悔しい思いをしていた。
翌年、監督に就任した松平康隆は、ソ連を中心とする東欧勢に対抗すべく、190cm超の大型3選手を代表に選出。そのうちの一人が、森田淳悟だった。
松平監督はソ連にコーチ留学した経験から、強国と同じバレーをしても勝てないと確信。Bクイック、Cクイックといった速攻を取り入れ、東洋の魔女の代名詞、回転レシーブでは、男子のスピードには追いつけないと、フライングレシーブを導入した。
「監督に『創造性のあるバレーを考案しろ』と言われていたんです。あるとき、セッターのトスが合わず、一度ジャンプを止め、タイミングを見計らってスパイクを打ったところ、目の前のブロッカーが消えた。これは使えると思って監督に報告しました」
こう森田淳悟(68)本人が語る。
森田考案の「一人時間差」に松平は大喜びし、「私の指示があるまで使わないように」と伝えたという。そして、1972年のミュンヘン五輪の準決勝。
ブルガリアに2セットを先取された日本は、3セットめに投入された南将之が、猛特訓の末に体得したフライングレシーブで窮地を救い、最終セットには森田の一人時間差が炸裂。
ブルガリアをフルセットの末に降し、勢いに乗った日本は、決勝で東ドイツに3対1で勝利。東洋の魔女に続き、男子に初の金メダルをもたらしたのだ。
「当時は半年間を代表に拘束され、ひたすら海外遠征を繰り返しました」
この猛特訓が、金メダルにつながったのだ。
(週刊FLASH2016年8月2日号)