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野村監督「世紀の勘違い事件」西本聖に指導を頼んだ投手は誰だ?
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.07.26 11:00 最終更新日:2020.07.26 11:00
2020年2月11日に惜しまれつつ亡くなった、野村克也さん(享年84)。辛口の評論に鋭い分析で人気だった野村さんだが、マネージャーの小島一貴さんが目撃した、ある “事件” を振り返る。
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“事件” の相手は、野村さんのかつての教え子で、ヤクルトのエースとして活躍した川崎憲次郎投手。野村監督の著書を数冊読んだことがある人なら、川崎投手に関する有名なエピソードを目にした方も多いだろう。内容はおおむね、こうだ。
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《監督が解説者だったころ、川崎投手が内角の直球を痛打されるシーンをしばしば見ることがあった。「おそらく江川卓氏の投球スタイルを真似ているのだろうが、もったいない」と思っていた。
ヤクルトの監督に就任した後、ある年のキャンプで、野球解説者の西本聖氏が視察に来た。西本氏といえば、シュートを武器に大活躍した投手。川崎投手にシュートを教えてくれないかと監督が頼むと、了解してくれた。
当時、シュートを投げすぎるとひじを壊すと言われていたが、西本氏はそれも迷信だと言っていた。『シュートはひじで投げるのではなく、指先の力加減で投げるのだ』と。西本氏の手ほどきでシュートを習得した川崎投手は、投球の幅が広がり、大活躍するようになった……》
これが、そのエピソードの全容だ。
そして監督が(東北楽天)イーグルスを退任して何年か経ったころ、ある雑誌の取材で、川崎投手との対談が企画された。私にとっては、とても楽しみな対談だった。
エピソード自体は監督から何度も聞いていたが、当事者から裏づけとなるような話を聞いたことがなかったからである。ぜひとも、川崎氏の見解を聞いてみたかった。
対談の会場に到着すると、雑誌の担当者と川崎氏がすでに待ち構えていた。川崎氏は、見るからに緊張している。ほかの選手・OBもそうなのだが、ヤクルト時代に監督の下でプレーした人は、監督のことをものすごく恐れている。ヤクルト時代の監督は、今と比べ物にならないくらい怖かったようだ。当時であれば、私にはマネジャーは務まらなかっただろう……。
それはともかく、対談のメインテーマは日本シリーズだった。自然と、川崎氏が活躍した1993年の西武ライオンズとの激戦の話が多くなり、なかなか《例の話》に至らない。
そんななか川崎氏から、「ある試合でインコースに投げた球を痛打されたことがあり、翌日の試合前の練習中に説教された」というエピソードが披露された。
「炎天下で2時間立たされ、練習をする時間がなくなりました」 川崎氏は、そう苦笑いする。「これは!」と期待していると、案の定、監督が《例の話》を切り出した。
監督がいつもの調子で、「キャンプで西本が来てさあ」と語りはじめ、「シュートでひじを壊すって、そんなの迷信ですよ!」と、西本氏の口調を真似をする。いつもと変わらぬ語り口だ。
ところが、ふと川崎氏のほうに目をやると、なんともいえない表情をしていた。苦笑いのようでもあり、苦しいそうでもある。やがて監督の話がひと段落ついたところで、川崎氏が告白した。
「監督、それは僕じゃないです」
「えっ? そうか?」
……衝撃の告白である。監督は、「本当に違う?」などと確認するが、覆るはずもない。しばらく黙り込んだ監督はひと言、「う~ん、じゃあ誰だったんだろう」と、力なく呟いた。
念のため付言すると、西本氏から教わったのではないが、川崎氏がシュートを覚えたのは事実だ。ただしその時期は、監督が思っていた1990年代初頭ではなく、1997年ごろのこと。
「それまで三振にこだわっていたが、こだわりを捨ててシュートを習得したことで、投球の楽しさを覚えた」
川崎氏は、そう述懐していた。1998年には17勝を挙げ、最多勝のタイトルと沢村賞を獲得している。話の趣旨としては、監督の記憶も正しかったといえる。
とはいえ、勘違いが発覚した直接対談も含め、監督はメディアに対して、この話を100回以上しているはず。記憶力がずば抜けている監督だが、この件については珍しく記憶違いだったというわけだ。
そして、西本氏からシュートを教わった選手が実際には誰だったのか、監督も最後までわからないままだった……。