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野村監督の「仕事流儀」心からイヤがった仕事も最後は完遂
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.08.10 06:00 最終更新日:2020.08.10 06:00
2020年2月11日に惜しまれつつ亡くなった、野村克也さん(享年84)。15年間近くマネージャーを務めた小島一貴さんが、野村さんの “仕事流儀” について、知られざるエピソードを明かす。
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監督が楽天を退団されて、マネジャーとして年中同行させてもらうようになると、トラブルも生まれはじめた。シーズンオフだけ仕事をご一緒するころに比べて、案件数が格段に増え、監督との事前の意思疎通が必要となったが、当初はなかなか難しかった。
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というのも、監督はすべてのスケジューリングを故・沙知代夫人にまかせており、沙知代夫人も「主人には連絡しなくていいわよ。私から言っておくから」と、常々おっしゃっていたからだ。
とはいえ、私が監督のマネジャーを務めたのは2006年以降で、年中同行するようになったのは2010年以降である。当時、監督は75歳、沙知代夫人は78歳だ。夫人から監督へ、仕事の内容が完全に伝わっていると考えるのは危ういということに、当初は私も考えが至らなかった。
2012~13年、東日本大震災からの復興を応援するという趣旨で、『花は咲く』という歌が制作された。メドレーで繋ぐ歌い手のひとりに、監督が選ばれた。理由はもちろん、東北楽天の元監督として、東北にゆかりがあったからだ。
講演やインタビュー取材などとはまったく異なる仕事内容なので、沙知代夫人に相談したが、「大丈夫よ。レコードだって出してるんだから」と、あっさりしていた。言われてみればそうかと思い、監督ご自身には、とくになんの相談もせず、収録の日を迎えた。
当日、指定されたスタジオの前で監督をお出迎えすると、「こんなところでやるの?」といぶかしんでいる。このビルのなかにスタジオがありますと答えると、「スタジオ?」と、さらに怪訝そうに尋ねた。
あ、これはマズいなと思ったが、もう “後の祭り” だ。聞けば監督は、この日の仕事が歌の収録だとはいっさい聞かされておらず、「雑誌のインタビューか何かよ」と言われて車に乗ってきたのだという。
スタジオ内に入ってソファに座っても、監督の表情は曇ったままだ。「こんなの聞いてない」の一点張り。少年時代、美空ひばりさんに衝撃を受けて歌手を目指そうとしたが、「高い声が出ないし、上達しないので諦めた」という監督だけに、歌うことへのハードルは、かなり高いようだった。レコードは出しているのだが……。
この歌の制作には、とても有名な作曲家の方が関わっていたが、しばらくしてこの方が、監督の説得を始めてくれた。女性で優しい方だったので、それもよかったのだろうか。次第に監督の態度も軟化し、「じゃあやってみるよ」と、ついに言ってくれた。
マネジャーである私のミスを、あろうことか本企画の大ボスである作曲家の方に救っていただいた。感謝してもしきれない。
帰り際、「ファンです(事実)。今日は本当にありがとうございました」と、私は何回も頭を下げた。監督は何事もなかったかのように、「お前、そうなのか。じゃあ、よかったなぁ」と笑っていた。
じつはこの時に限らず、監督は、現場に赴いて仕事をしない、ということはいっさいなかった。どんなに悪条件でも不機嫌でも、仕事は必ずしてくれた。
「俺のような年寄りに仕事が来るんだから、野球界は人材不足」「女房に、『ボケ防止よ、仕事があるうちが花よ』と言われるからやってるんだよ」
このようにボヤくのだが、受けた以上はやり遂げる。しかも、求められた以上のことをやろうとする。その姿勢は、本物のプロフェッショナルだった--。