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野村監督のマスコミ術「不人気球団の監督は広報も兼務」ボヤキも演出!?【短期集中連載Vol.7】

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.02.07 11:00 最終更新日:2021.02.07 11:00

野村監督のマスコミ術「不人気球団の監督は広報も兼務」ボヤキも演出!?【短期集中連載Vol.7】

 

 2020年2月11日に惜しまれつつ亡くなった、野村克也さん(享年84)。1周忌にあたり、15年間近くマネージャーを務めた小島一貴さんが、短期集中連載で「ノムさん」の知られざるエピソードを明かす。今回は、第7回だ。

 

 

 野村監督は、常にマスコミを意識していた。楽天の監督時代、「7回くらいから、その日の談話を考え始めていた」のは、有名な話だ。ほかの監督であれば、試合に集中したほうがいいだろうと突っ込まれるところだが、野村監督の場合は許されてしまう。結果として「マー君、神の子、不思議な子」などの名言も生まれた。

 

 

 そもそも、南海というパ・リーグの球団で現役時代の大半を過ごしたことが、マスコミを意識することに繋がったという。当時のパ・リーグは、今では考えられないくらい不人気だった。

 

 監督の現役時代、南海が優勝争いをしたり、プレーオフや日本シリーズで熱戦を繰り広げていても、関西の新聞は阪神一色。本当かどうかわからないが、西宮球場(当時の阪急の本拠地)で試合をしていると、甲子園球場の歓声が聞こえてきたという。それくらいパ・リーグの試合は静かだったということだ。

 

 プロ野球はお客さんが入ってナンボの人気商売なのに、これではいけない。そこで、どうやったらマスコミの注意を引くことができるか考え始めた。通算600号本塁打を記録した際に残した「王や長嶋がヒマワリなら、自分は月見草」というコメントは、何日も前から考えていた内容だったそうだ。

 

 マスコミを利用することにも積極的になっていった。ヤクルトの監督時代は、賛否の分かれる手法だったかもしれないが、マスコミを通じて選手についてのコメントを発して、奮起を促した。チームもマスコミに取り上げられれば話題になるし、一石二鳥を狙ったのだという。

 また、同じ在京球団の巨人に比べれば選手の知名度が低かったので、積極的にテレビに出るよう奨励していた。そして、「ヤクルトファンは大概がアンチ巨人だろう」という判断から、巨人や監督である長嶋茂雄氏の批判を、マスコミの前で意図的に繰り返していた。

 

 さらに、オリックスとの日本シリーズの前には、イチロー選手の攻略法を意図的にマスコミに公開し、とくに序盤においては封じ込めに成功して、日本一を勝ち取った。

 

 ただ、阪神監督時代は、あまり機能しなかったイメージがある。後日、語っていたのは「阪神では余計なことを言えないし冗談も言えない、それくらい番記者は怖い」と感じていたそうだ。

 

 番記者たちは選手に取材拒否されるのを恐れ、選手をかばって監督や球団の批判をする傾向がある、と分析していた。「よそ者には、やりづらい球団。やらなければよかった。大後悔した」と話していた。

 

 しかし、楽天の監督時代は再びマスコミを活用し、試合後の談話がスポーツニュースや新聞の名物になっていた。このころには、「監督は広報部長を兼ねている」というのが持論だった。

 

 そんな監督だったが、マスコミによって作り上げられた言葉に反発してボヤくこともあった。たとえば、勝ちパターンのリリーフ投手陣が機能しているときに言われる「勝利の方程式」という言葉である。

 

「『勝利の方程式』っていうけど、勝負ごとに方程式なんてあるのかね。マスコミが作った言葉だよ。やってるほうは、そんなつもりはないよ。『このピッチャーを出したから今日は大丈夫』なんて思ったことはない」

 

 そもそも監督はMLBを参考にし、国内ではほかのチームに先駆けて、投手の「分業制」を確立した人物である。トレードで南海に来た江夏豊投手に、「球界に革命を起こそう」と言ってリリーフ転向を説得したのは有名な話だ。そんな野村監督が、「勝利の方程式はマスコミの造語」と言うのは、なんとも意義深い。

 

 監督は、2009年シーズンを最後に楽天の監督を退任して、その後はマスコミが主戦場となった。多くの出演、取材にマネージャーとして同行したが、慣れてない取材者が少々わかりづらい質問をしても、監督はいつも丁寧に答えていた。監督とマスコミは、最後まで切っても切れない関係だったのだ。

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