スポーツ
古賀稔彦さん、生前明かしていた理想の死は「畳の上でバタンと…」
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.03.24 21:44 最終更新日:2021.03.24 21:46
3月24日朝、バルセロナ五輪(1992年)柔道金メダリストの古賀稔彦さんが亡くなった。享年53。ガンを患い、闘病中だった。
選手団主将も務めたバルセロナ五輪では、大会直前、吉田秀彦氏(51)との練習中に重傷を負った。古賀さんは2004年、本誌のインタビューで、当時を振り返ってこう語っていた。
「激痛に耐えながら、なんでここにきてケガなんかしたんだろうという思いでいっぱいでした。でもふと我に返ったら、『あ、これで俺は勝てるな』と、そんな言葉が自然に心の中からできたんです」
【関連記事:古賀稔彦と柔道で競った元警官、安納芋農家を兼業で継ぐまで】
診断結果は左膝内側の側副靱帯損傷。歩くことすら困難な上に、減量苦が重なった。試合当日は麻酔を6カ所も打ち、テーピングで負傷箇所を固めて試合に臨んだという。
決勝戦は一進一退の攻防が続き、判定へ。審判の旗が自分に上がった瞬間「記憶が飛んだ」という。畳を降り、コーチと吉田氏から涙で迎えられて初めて、状況を飲み込んだ。
「万全の状態で勝てるというのは当たり前のこと。どこかにマイナス部分を背負って勝負することも結構ありましたから。だから、ケガをしたから仕方ない、なんて気持ちはまったくありませんでした。逆に周囲の雑音とか雑念に振り回されることがなくなって、試合に集中できました」
悲願の金メダルを獲得した “平成の三四郎” 。取り巻く環境が一変したときの心境を、2008年の、本誌の別のインタビューで明かしている。
「イベントや講演で呼ばれてギャラをもらって、どこに行ってもチヤホヤされました。その地域でいちばんいい店に連れてってもらい、減量もないし好きな酒も飲める。バラ色の生活が、1年くらい続きましたね。ケガで練習もできないし、勝負の世界から開放されてすごく楽でした。
しかし、1年過ぎてからその生活がつまらなくなってきました。心の成長は、夢や目標を持つことでしかできないと実感しました」
引退後は神奈川県に道場を構え、後進の育成に励んだ。夢を追いかける大切さを、子供たちへ伝えるために。
「引退してどうするかなぁと、柔の道の “最後” を考えました。死ぬときに、胴着で畳の上でバタンといけば、夢、達成だと。まずは死ぬ場所を作ろうと道場を作ったんです。でも、死ぬにはまだ早い。それなら自分が柔道を通じて、よかったことを子供たちに伝えようと、気軽に通える町道場を開きました」
畳の上での大往生こそ叶わなかったが、無数の子供たちに夢と希望を与え続けた古賀さん。今も瞳を閉じれば、代名詞の一本背負いが瞼の裏にしっかりとよみがえる。早すぎる死を惜しみつつ、掌を合わせたい。