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日本人初の世界王者「白井義男」が達成した科学ボクシングの成果/5月19日の話
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.05.19 08:40 最終更新日:2021.05.19 08:40
1952年5月19日、プロボクシング選手の白井義男が、世界フライ級王者のダド・マリノに判定勝ちし、日本人として初めて世界王者の座を勝ち取った。
試合は後楽園球場で開催され、特設リングには4万人の人々が詰めかけた。「敗戦国の白井選手が、戦勝国であるアメリカのボクサーに挑む世界戦」との触れ込みから、試合には高松宮ご夫妻や、GHQの将校、当時の官房長官も列席し、一大イベントとなった。試合はラジオでも中継され、白井の勝利は日本中を興奮の渦に巻き込んだ。
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戦後間もない当時、ボクシング界はどのような状況だったのか。近代ボクシング史を研究する、相模女子大学准教授の木本玲一さんが、こう語る。
「1930年代にボクシングブームが来てから完全に定着し、全国で興行がおこなわれるようになっていました。戦時中は軍に招集されたボクサーも多かったのですが、残っている人たちでどうにか続けていたようです。戦後、復員したボクサーが、新橋あたりで焼け跡に柱を立て、またボクシングを始めます。1945年には、もう興行がおこなわれていました。
ただ、当時は国技館などがGHQに接収されていたので、基本的には無料イベントでした。もちろん例外もあり、昭和を代表するボクサーであるピストン堀口は、GHQと交渉し、海外同胞の帰国を促すためのカンパを募る名目で、1946年2月に日比谷公会堂で有料興行をおこなっています。本格的に試合が戻り始めたのは、1947年以降です」
世界王者となった白井義男は、戦前にプロデビュー。海軍に招集され、復員してからもボクシングを続けた。
戦時中に患った腰痛に悩まされ、引退寸前だったところで、GHQの生物学者として来日していたアルビン・カーン博士と出会う。白井の練習風景を見たカーン博士は「君のパンチはナチュラルタイミング。必ず世界をつかめる」と絶賛する。
「カーン博士はもともとプロのトレーナーだったわけではなく、ボクシングに造詣の深いただの生物学者でした。通常であればそういう人がボクシングに関わることはありませんが、戦後のドサクサもあったのでしょう。
日本は当時からジムに所属する制度を取っていましたが、2人は日拳ホールというマネジメント(契約)制の練習所で出会いました。それもあって、部外者であるカーン博士が、白井を一対一で指導できたのです。
カーンが白井に教え込んだのは、攻守のバランスです。特にディフェンスを徹底しました。戦前・戦中のボクシングジムは、基本的にスパークリング練習を重ね、あとは実戦で覚えろという精神です。
対して、カーン博士がやったのは徹底的な反復練習で、ジャブばかり30分でも1時間でも打たせ、少し角度が違うと修正させることをひたすらやりました。そこまで反復練習させるのは珍しく、白井がおかしな外国人につかまって気の毒だ、と周りで言っている人もいたようです」
白井が出てくるまで、相手に捨て身で向かっていくようなファイター気質のボクサーが多く、観客からの人気も高かった。ピストン堀口などは、ディフェンス度外視の特攻スタイルで、戦時中も観客を沸かせていた。
しかし時代が移り、「相手に打たせずに打つ」ボクシングによって白井が世界王者に上り詰めたことから、少しずつ風向きは変わっていく。
「白井という成功例を目の当たりにしたことで、それまでのファイター精神一辺倒ではなく、カーン博士が教えたような『科学的ボクシング』も大事だとする声が出てきました。現在のボクシング指導でも、科学的ボクシングは定着しています。
ただ、科学的ボクシングが最も大切かというとそんなことはなく、ディフェンスが甘く、ひたすら前に出るタイプのボクサーも、興行として見ればニーズは高く、活躍する機会は多いのです」
白井の活躍で、国内のボクシングは大きく盛り上がりを見せる。しかし世界は遠く、ファイティング原田が2番目の世界王者になるのは1962年と、白井の優勝から実に8年の歳月がたっていた。
「白井に技術を教え込んだカーン博士は、その後も多少は他の選手に教えることもありました。名門ジムであるヨネクラジムを創設した米倉健司も、現役時代にカーン博士から教えてもらったそうです。
ですが、カーン博士が一対一で教え込んだ選手は白井だけでした。白井以前も白井以後も、彼のように特定のジムに所属せず、マネジメント制によって世界王者となった選手は日本にいません。あらゆる意味で、例外的な存在だと言えるでしょう」
写真・時事通信