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清原が奈良まで激励に駆け付ける男…デビュー20周年、橋本友彦の数奇なプロレスラー人生

スポーツ 投稿日:2021.05.28 16:00FLASH編集部

清原が奈良まで激励に駆け付ける男…デビュー20周年、橋本友彦の数奇なプロレスラー人生

20周年興行のメインは6人タッグ。橋本(下段中央)は、(上段左から)金本浩二、藤波辰爾、田中稔という元新日本プロレスのレジェンドたちと対戦した

 

「清原さんに来ていただけたのは、ホントにありがたかったし、嬉しかったですね。思えば僕のプロレスラー人生は、ホントにいろんな方との出会いに恵まれてるんですよね」

 

 4月4日、奈良県コンベンションセンターでおこなわれた「プロレスリングA-TEAM『橋本友彦デビュー20周年記念興行』」。この日、元プロ野球選手の清原和博(53)が久しぶりに公の場に姿を見せたのは、主役の橋本友彦(43)にシークレットゲストとして花束贈呈をするためだった。清原はこの日がプロレス初観戦だったという。その様子は小誌でも報じたが、よほどのプロレスマニアならいざ知らず、「橋本友彦って誰?」と思った読者も少なくなかったはずだ。

 

 

 身長183cm、体重140kgという恵まれた体格で、“インディプロレスラー最後の大物”ともいわれる橋本友彦。一般的に、厳しい若手時代を耐え抜いた者だけがデビューできるプロレス界にあって、橋本は、まったく下積み経験のないままプロレス界に身を投じた変わり種だ。その数奇なレスラー人生を自身が振り返る。

 

「もともとプロレスラーになりたいとは、ぜんぜん思ってなかったんですよ。5歳のころから柔道をやっていて、大学までは本気でオリンピックを目指していたんで」

 

 柔道に明け暮れる青春時代を送り、特待生として大東文化大学に入学。柔道部の同期には、現在、フリーとしてプロレス界で活躍する佐藤耕平(43)がいた。

 

「膝の故障や減量苦もあったんですけど、大学2年のとき、国際大会に繋がる大事な大会で、高校生のときに秒殺で勝ってる選手に1回戦負けしちゃったんです。高校生までは絶対にシードだったので1回戦に出ることもなかったし、まして、そこでめちゃくちゃ弱い選手に負けたのがショックで、心が折れちゃったんですよね。で、大学を逃亡しました(笑)」

 

 柔道漬けの毎日から解放され、地元・奈良に戻って遊びまくる毎日。だが、そんな生活にも半年で飽きてしまう。

 

「何かしなきゃと思ってたころ、大学の柔道部で一緒だった(佐藤)耕平が、プロ修斗の選手になっていて、ある大会で優勝したんですよ。で、『お前ができるんやったら俺もやるよ』って言って、耕平の通ってた行徳(千葉県市川市)の道場で、ときおり練習するようになったんです。そうこうするうちに、耕平に『プロレスへと繋がる道ができたから、行かないか?』って誘われて。それで2000年の3月、指定された道場に行ってみたら、藤原組長(藤原喜明・72)の前で練習をさせられました。そこで組長から『お前、来月試合出ろ』って言われて、4月にデビューしたんです」

 

 その後、DDTプロレスリングにレギュラー参戦。全日本プロレスのリングなどにも上がる一方で、総合格闘技のリングからも声がかかるようになる。総合デビューは2002年5月、パンクラスで、対戦相手は謙吾(45)。パウンドでTKO負けという苦々しいデビューとなってしまう。

 

「脚を骨折してプロレスを欠場してるときに、総合格闘技のオファーがあったんですよ。骨折もまだ治ってなかったんですけど、周囲から『お前、チャンスやぞ。勝てるぞ』ってそそのかされて、『じゃあ、やります』って(笑)。負ける気もしなかったし、組んだ瞬間もぜんぜん大丈夫って思ってたんですけど、パウンド状態でレフェリーにとめられちゃった。パンチもあまり当たってなかったし、僕自身はラウンド終了まで耐える気満々だったんですけど……。負けたのは誤算でしたけど、総合も面白いなって思いましたね」

 

 同年7月には「勝ったほうをPRIDE本戦に出す」という約束を取り付け、『PRIDE THE BEST Vol.2』(PRIDEの登竜門的大会)でジャイアント落合と対戦するも、「熱くなりすぎて」敗北。2003年の大晦日には、『INOKI BOM-BA-YE 2003』で、超大物、アリスター・オーフレイム(41)とも対戦している。

 

「DDTの試合直前に、関係者からオファーが来て『明後日、神戸で試合なんだけど、試合できる? 相手、アリスター(・オーフレイム)なんだけど』って言われて。『明後日ですかー。アリスターですか…。ファイトマネーいくらですか?』『100万円』『やります』って(笑)。まだデビュー3年目だったし、当時1試合で100万円なんて、もらったことなかったですからね。勝算はなかったんで、惨敗しちゃいましたけど」

 

「チャンスでことごとく負ける男(笑)」と自虐する橋本だが、2006年にはフリーとなり、プロレスの自主興業『MAKEHEN』を開催。現在、世界最大のプロレス団体WWEの『NXT』で大活躍する女子プロレスラー、紫雷イオ(31)がデビューしたのは、この橋本のプロデュース興行『MAKEHEN』である。

 

「イオはお姉ちゃん(紫雷美央。現在は引退)と一緒に入ってきたんですけど、ホントに不思議な縁で。当時、僕がお世話になっていた広告代理店の人が、錦糸町の飲食店で働いていた美央と知り合ったんですけど、話してみたら芸能人志望だったんです。『じゃあ、プロレスから芸能やればいいじゃん』って言ったら、『やるやる』って。で、美央が実家に帰ってプロレスをやることを伝えたら、妹(イオ)も『私もやる』ってなって。当時、イオはまだ高校生だったんですけど、お母さんにもお願いされたので、MAKEHENの所属でデビューさせたんです。だから、お姉ちゃんが錦糸町の飲食店で働いてなかったら、今アメリカで活躍するイオはいなかったでしょうね」

 

 MAKEHEN解散後は紆余曲折を経て、自身の団体『PRO WRESTLING A-TEAM』を旗揚げし、今も精力的に活動中の橋本。プロレスと並行して、総合格闘技も5戦(1勝4敗)、キックの試合も2戦(1勝1敗)経験してきた。自身の20周年を振り返ってみて、思うところを聞いた。

 

「分岐点で勝てなかったことですかね。チャンスで、ことごとく負けるという(笑)。そこが持ってなかったですね……。分岐点での負けでいちばん痛かったのは、やはりパンクラスデビューの謙吾戦。あそこで勝ってたら、正直、僕のプロレスラー人生はだいぶ違うものになっていたと思いますね」

 

 そんな橋本が、今、総合格闘技の舞台で対戦を目論む選手がいる。

 

「スダリオ剛(24)とやりたいんですよ。今年3月の『RIZIN.27』で、僕、スダリオと対戦した宮本和志選手(42)のセコンドについてたんです。スダリオが勝ったあと、マイクで『ちゃんとしたファイターとやらせてください』と発言したのにはホントにカチンと来たし、試合後、あっちの陣営と揉めたときも、スダリオは俺にすごく(食ってかかって)来たんですよね。そのとき、やるしかないなと思いましたね。ホントに、チャンスがあるならスダリオとやりたいです」

 

 大相撲から転向してRIZINデビュー後、無傷の3連勝中のスダリオ剛と、独自のプロレス人生を歩んできた橋本が狙うプロレスラー魂を賭けた大勝負。ぜひ実現に期待したい。

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