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大魔神・佐々木主浩が降臨「僕のフォークがメジャーで輝いたワケ」/8月7日の話
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.08.07 06:00 最終更新日:2021.08.07 06:00
2005年8月7日、横浜ベイスターズ(当時)の佐々木主浩氏が現役引退を表明した。
1990年にドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団。2年めからは、チームの事情から抑え投手に抜擢される。その後、1995年から4シーズン連続でセーブ王に輝くなど、抜群の安定感でチームを勝利に導き、「大魔神」の異名を誇った。佐々木氏は2000年、さらなる高みを目指し、シアトル・マリナーズに移籍した。
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佐々木氏本人が、メジャー移籍当時をこう振り返る。
「もともとメジャーリーグに興味があったというか、行きたかったんですよね。当時の僕は、日本でやり残したことがなかった。自分のモチベーションやレベルアップを考えた結果、メジャーに挑戦しようと思いました」
佐々木氏がメジャーに挑戦した理由のひとつに、横浜時代に芽生えた「フェアプレー」への渇望があったという。
「これは当時の話で、本当かどうかはわからないのですが、横浜で投げていたとき、『サイン盗み』のようなことは、あったと言えばありました。僕が投げようとしているとき、相手チームのベンチから『狙え!』とか『アウトコース!』と、声があがるんです。
そういう場面が何回かあって、イヤだな、というか『なんでそこまで気をつけなきゃいけないんだ』と思ったのは事実です。
アメリカにも、もしかしたらサイン盗みはあったのかもしれません。でも、メジャーでやってしまうと、バッターは容赦なく球をぶつけられます。だから、日本に比べると、力対力の勝負ができる場所でした」(前出・佐々木氏)
「大魔神」から「DAIMAJIN」となった佐々木氏は、メジャーの熾烈な競争を勝ち抜き、1年めからクローザーとして活躍。シーズンを通して投げ抜き、当時のメジャー新人記録となる37セーブをあげ、2000年のアメリカンリーグ新人王に輝いた。
その活躍を支えたのが、代名詞でもある「フォークボール」だ。横浜時代からボールの挟み方や回転のかけ具合などを絶妙に操り、多彩なフォークボールを駆使して打者をなぎ倒してきた。
アメリカでは、肘や肩に負担がかからない変化球を中心に投球を組み立てる傾向があるため、フォークボールのような身体的負担が大きい変化球は投じられる機会が少ない。そのため、バッターは対応した経験が少なく、有効性が高い球種となる。実際、佐々木氏のフォークボールはメジャーの強打者たちを苦しめた。
「メジャーリーグのバッターからしたら、フォークボールは見慣れない球種ではありますよね。だって、投げるピッチャーがいないわけだから。大学生も、メジャーリーガーでも、肘への負担が大きいフォークボールとかスプリット系はあまり投げない。
一時期はアメリカでもスプリットが流行ったけれど、それでも肘への負担があるから、ツーシームとかチェンジアップを投げる投手が多い。
チェンジアップに比べると、フォークボールは軌道が全然違います。たとえば、大谷(現エンゼルス)にしてもマー君(田中将大、前ヤンキース)にしても、スプリットをうまく使っているでしょ? 日本人ピッチャーが投げるスプリット系の球は、メジャーでは効果があるんですよ」(同)
真っ向勝負をこよなく愛し、メジャー4年間で129セーブをマークした「DAIMAJIN」。見たこともない強烈な魔球に、誰もが戦々恐々だったのだ。
写真・時事通信