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伊良部秀輝、元通訳が初めて明かした素顔「熱血漢でお茶目で話し好き」
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.08.08 06:00 最終更新日:2021.08.08 06:00
「俺は死球は絶対によけなかったけど、アイツのボールだけは『当たったら死んでしまう』と思った。駅のホームで新幹線が通りすぎていく感じだったね」
あの清原和博氏(53)をして、恐怖を覚えたという剛速球を投げたのが、伊良部秀輝氏(享年42)だった。
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1990年代後半、日本最速の159km/hの速球を武器に日本、米国で活躍。一方で、「わがまま」「ふてぶてしい」「トラブルメーカー」というイメージだった伊良部氏は、完全に “ヒール” だった。
そんな彼がエキスポズを退団後に所属したウインターリーグのプエルトリコ、テキサス・レンジャーズで通訳を務めたのが小島一貴氏(48)だ。
早いもので、伊良部氏が亡くなって10年の月日が流れた。今回初めて、小島氏が “ヒール” とは違った “人間・伊良部” を語ってくれた。
「プエルトリコで出会い、通訳を始めたのが2001年ですから、10年間のつき合いでした。亡くなってからも、ちょうど10年です。初めは通訳として、のちに代理人事務所の担当者として、一緒に過ごした10年間の記憶は強烈に残っています」
小島氏は最初、通訳の仕事を引き受けるとき、緊張感に包まれていたという。
「会う前はさまざまな報道から『怖い』というイメージがありました。でも、それはすぐに間違いだとわかりました。出会った場所がプエルトリコで、日本語がしゃべれるのは2人だけということもあり、打ち解けるまでにさほど時間はかかりませんでした」
■通訳が怒鳴られるのは納得がいかない!
すぐに2人は、「ラブさん」「こじりん」と呼び合う仲になった。
「食事はほとんど外食でしたが、一度『パスタなら作れる』と言ったら、その味をすごく気に入ってくれて、一週間同じメニューということもありました(笑)。外食の際の会計は、ラブさん持ちでしたね」
ふだんの伊良部氏は、お茶目で話し好きだったという。
「プエルトリコでは、若手選手がラブさんに野球の話をよく聞きに来るんですが、話しだしたら止まらない。ほかのチームメイトが帰ってしまい、最後はラブさんと話し相手と私だけということもしょっちゅう。痺れを切らしたスタッフが『早く帰ってくれ』と、頼みに来るほどでした(笑)」
それは、レンジャーズ入団後も変わらなかった。
「当時、チームにはアレックス・ロドリゲスというスーパースターがいたんですが、飛行機での移動の際、後部座席は彼とラブさんの定位置。多くの選手は寝ているんですが、2人は到着するまでずっと野球談議をしていましたね」
小島氏には忘れられない思い出があるという。レンジャーズ時代はクローザーをまかされており、球場入りもほかの投手と比べて遅い時間だった。
ある日、遠征地でいつものように遅めに球場に入ると、アコスタコーチが小島氏に「なぜ、もっと早く来ないんだ。今日はリリーバーには特別メニューがあったんだ。コンディショニングコーチから聞いていたはずだ!」と、まくし立てた。覚えはなかったが、コーチの怒りが収まらないので、いったんは謝罪した。
「クラブハウスに戻ると、ラブさんは落ち込んだ様子の私に『どうしたの?』と聞いてきました。私が事情を説明すと、ラブさんの表情が怒りに満ちてきたのです。
そして『本当に聞いていないんだな?』と念を押すと、アコスタコーチを追いかけて『俺も通訳も特別メニューがあることを聞いていない。それで通訳が怒鳴られるのは納得がいかない。特別なことだったら、なぜ俺に直接話さなかったんだ。次からは俺に面と向かって話せ!』と、怒りの表情でまくし立てたんです。
私が通訳したのですが、ラブさんの表情や声の大きさから怒りは伝わったのでしょう。最後は気圧されたように、コーチも『OK』と答えるのがやっと。あまりの剣幕に、手を出すんじゃないかと思うほどでした。
反面、私のことを信じて、そこまで言ってくれることが嬉しかったですね。普通、一選手がコーチにあそこまで言ったら干されたり、クビにされてもおかしくないですから」