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高津ヤクルト 日本一の陰に“野村ID野球”を彷彿させたふたつの采配

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.12.03 15:30 最終更新日:2021.12.03 15:57

高津ヤクルト 日本一の陰に“野村ID野球”を彷彿させたふたつの采配

写真・JMPA

 

 近年まれに見る激戦と言われた2021年の日本シリーズは、東京ヤクルトスワローズが制し、2001年以来、20年ぶりの日本一となった。

 

 ヤクルトの高津臣吾監督は新人の年から8年間、野村克也監督のもとでプレーした。最近のインタビューなどでも、自身の野球人生において野村監督の影響は大きいという趣旨の発言をしている。

 

 

 現役時代の高津投手といえば、サイドスローの救援投手でクローザーのイメージが強いが、野村ヤクルトにおいて最優秀救援賞(リーグ最多セーブ)を獲得したのは1994年の一度だけ。ただしその後は、5年間で3度も同賞に輝いた。

 

 野村監督が高津監督について頻繁に語っていたエピソードは、松井秀喜選手のプロ第1号本塁打についてのものだ。打たれた高津投手は当時プロ3年め。1993年5月3日のことだった。

 

 このとき、野村監督は高津投手にあえて内角のストレートを投げさせた、と語っていた。狙いはふたつあったそうで、ひとつは大物ルーキーの松井選手が内角の速球をさばけるかどうかの確認、もうひとつは、高津投手に速い球だけでは通用しないと理解してもらうことだった。

 

 じつは高津投手は、松井選手に本塁打を打たれたまさにこの試合で、プロ入り初セーブを挙げている。そしてこの年、野村監督から習得を求められた緩いシンカーを習得して20セーブを挙げ、リーグ優勝と日本一に貢献した。野村監督の狙いどおり、松井選手に速球を打たれたことで、緩いシンカーにより磨きをかけたのかもしれない。

 

 さて野村監督の持論として、「外野手出身、投手出身の名監督はいない」というものがある。直近の10年間こそ、ソフトバンクの工藤公康監督が5回も日本一に輝き、投手出身では星野仙一氏、外野手出身では秋山幸二氏、栗山英樹氏が日本一になっているが、それまでは、外野手や投手出身で日本一になった監督はあまり多くなかった。

 

 そのせいか、野村監督も高津氏が将来監督になることはほとんど想像していなかったようだ。取材などでも「もし高津氏が監督になったら」というような話は、私が同行した限りなかった。ヤクルト監督時代の選手の中で、将来の監督候補として名前を挙げていたのは、古田敦也氏、宮本慎也氏、稲葉篤紀氏といった野手ばかりだった。稲葉氏のことでさえ、「外野手出身だから…」と心配していたくらいだ。

 

 ただ、高津監督の日本シリーズでの采配の中で、野村監督の影響を感じさせるものがあったのは確かだ。ひとつは、吉田正尚選手の打撃を完全に封じ込めたこと。シリーズ6試合での打率.222もさることながら、28打席で6三振も奪っている。吉田選手はシーズン中、455打席で26三振しかしていない。

 

 右腕骨折の影響はもちろんあっただろうが、徹底した分析とミーティングをおこなった結果であろう。野村ID野球といえば、データ分析と徹底したミーティングで、短期決戦では相手主力打者を封じ込めることを得意としていた。それを思い出させる6試合だった。

 

 もうひとつは、中村悠平捕手をフル出場させたことだ。オリックスが2人の捕手を使い分けていたのとは対照的だった。中村捕手がチーム内でシリーズ打率が1位と打撃好調だったこともあるだろうが、捕手の固定も野村監督の考え方に通じる。

 

 野村監督は常々、捕手を併用することに疑問を呈していて、特に短期決戦では捕手を固定して戦うことを好んでいた。毎試合、相手打者を自分の目で見て間近で感じてこそ、より確率の高いリードをすることができる、と言っていた。そのような野村監督の考え方を思い出させる采配だった。

 

 野村監督は生前、スポーツ紙で日本シリーズの評論を毎試合おこなうことを常としていた。野村監督が2021年の日本シリーズを見ていたら、どのように評論しただろうか。そして投手出身である高津監督のことを、どのように評価しただろうかーー。

 

文・野村克也氏の元マネージャー・小島一貴

 

( SmartFLASH )

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