門田博光氏が亡くなった(享年74)。NPBでは通算記録で3位となる本塁打数、打点数を記録した大打者で、その訃報を聞いて多くのプロ野球関係者がコメントを発表している。
門田氏は1970年に南海ホークスでデビューした。この年から南海の監督は選手兼任の野村克也監督である。2人は、1977年シーズンをもって監督が南海を離れるまで8年間、同僚として、そして選手と監督として、一緒に戦っている。この間、南海のリーグ優勝は1973年の一度だけ。Bクラスも2回しかなく、最下位は一度もなかったとはいえ、この2人を擁した割には、ややもの足りないチーム成績だったといえるかもしれない。当時は阪急ブレーブスの黄金期で、1973年のプレーオフも、阪急有利の下馬評をなんとか覆してのリーグ優勝だった。
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門田氏は、早くも2年めには31本塁打を放ち、120打点でパ・リーグ打点王に輝いた。私が子供のころはまだ現役選手で活躍しており、紛れもない長距離砲というイメージだったが、じつは高校3年間で本塁打は1本も打てなかったのだという。身長も170cmと決して大きくはないため、入団当初は、ヘッドコーチのドン・ブレイザー氏が2番打者として育てようとしたのだと、監督が振り返っていた。「でも本人はまったくその気がなかった。ブレイザーもすぐにそれに気がついて、あきらめちゃった」と述懐していた。
「全打席ホームランを狙う」とか「ホームランの打ちそこないがヒット」と公言する門田氏に対し、監督は「ヒットの延長がホームランだ」と諭したが、まったく聞く耳を持たない。オープン戦で巨人と対戦するときに、王貞治氏のところへ門田氏を連れて行き、「ホームランは狙って打ってない。狙って打てたら、いまごろ1000本くらい打ってますよ」というコメントを王氏から引き出したが、憮然とする門田氏が「監督はずるい。王さんと口裏合わせたでしょ」と発言。結局、監督はあきれて「もういい。勝手にせい」と匙を投げたそうだ。
ただ、監督も門田氏の打撃を買って、自分の前を打つ3番打者に抜擢した以上、門田氏のフルスイングを完全に放任したわけではなかった。あるとき、大振りするなと言えば言うほどフルスイングをする門田氏の性格を考え、逆を突くことを言ってみようと思い立った。「どうしたんや、今日は大人しいな。もっと振らんかい」と声をかけると、門田氏はコンパクトなスイングで軽打してレフト前にヒットを放ち、1塁ベース上から監督に向かってニヤリとしたそうだ。「でもしょっちゅう言うとバレバレだから、たまにしか使えない手だったな」と監督も振り返っていた。
江夏豊氏、江本孟紀氏とともに、扱いに困った選手として監督が「南海の三悪人」と呼んだ門田氏。「悪人」という表現はドギツイが、監督は「この3人にオレは鍛えられたから、長く監督を務めることができた。監督として選手にどう接したらよいのか、彼らから学んだ」と言っていたことから、むしろ愛情表現に近かったかもしれない。他方、「この3人はかなり変わっているから、指導者の声がかからない」などという発言を監督が繰り返していたことについては、「野村監督が『悪人』なんて呼ぶせいで、指導者の依頼はほとんど来なくなった」と、門田氏も不満を隠そうとはしなかった。
こうしてみると現役時代はもちろん、引退後も2人の関係は不仲だったのではないか、と思われるかもしれないが、そうでもないと思う。2010年代に入って、監督はある企画で門田氏と対談するために大阪に向かい、私もマネージャーとして同行した。
じつは、このころの監督は自身の体のことも考え、首都圏以外での仕事の依頼はほとんど断っていた。しかしこの企画は、門田氏が体調不良のため関西から出ることができず、なんとか大阪で実現できないかと要請されたものだったのだ。そのことを事前に監督に説明すると、「大阪で大丈夫だよ。問題ない」と二つ返事でOKが出た。口に出しては言わなかったが、監督も門田氏に会いたかったのではないか。
対談当日の2人は、数年ぶりに会ったとは思えないくらい話が弾み、終始、笑顔だった。上記の逸話も次々と飛び出したが、険悪な雰囲気はまったくなかった。「僕のようなモンが監督の言うとおりになるわけがないですよ」と、監督の目の前で豪快に語った門田氏だったが、王氏との逸話については、「勝手にせい、と言った監督の背中が寂しく見えましたね」と振り返った。もしかすると、「口裏を合わせたでしょ」は言い過ぎだったと思っていたのかもしれない。
今ごろは2人で、スイングやホームランについて笑顔で激論を交わしていることだろう。
(文・小島一貴)
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