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「子供がいることも言えず…」経験者が語る「育成ドラフト」の過酷な野球人生…“大出世”千賀滉大はレア中のレアだった

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2023.10.26 06:00 最終更新日:2023.10.26 06:00

「子供がいることも言えず…」経験者が語る「育成ドラフト」の過酷な野球人生…“大出世”千賀滉大はレア中のレアだった

千賀滉大(メッツ)年俸 270万円→19.6億円(共同通信)

 

 10月26日に開催されるプロ野球秋の風物詩「ドラフト会議」。本会議のあとにおこなわれるのが「育成ドラフト」だ。

 

 2005年から始まった制度だが、入団しても厳しい世界が待ち受けている。「一軍の試合に出られない」「年俸が少ない」「背番号は三桁」といった分かりやすい差はもちろん、「用具提供してくれるメーカーが決まりにくい」という裏側の現実問題も存在する。今季もっとも多い54人の育成選手を抱えたソフトバンクで、支配下登録を勝ち取ったのはわずか一人だった。

 

 一方で、その厳しさから這い上がった選手の活躍も目立つ。代表格は、メッツで新人ながら12勝を挙げた千賀滉大。年俸は、育成ドラフト時の700倍超にまで膨れ上がっている。先のWBCで活躍した宇田川優希甲斐拓也周東佑京牧原大成のいずれもが育成出身だ。

 

 

 ソフトバンクの小川一夫GM補佐兼スカウト部アドバイザーが、育成ドラフトの難しさを語る。

 

「支配下ドラフトで指名される選手は『いずれ戦力になりそうだ』という“見えている”部分が大きいが、育成で指名される選手は一芸に秀でながらも、ほかの要素がその時点では物足りない選手たち。ゆえに『このフォームや筋肉の質ならいずれ速くなりそうだ』など、“見えない”部分の先見の明が、スカウトにはより求められます」

 

 だが、活躍できる選手はほんのひと握り。育成選手から一軍に昇格した選手は、8.9%との数字もあるが……。そんな狭き門を突破した5人の猛者たちに話を聞いた。

 

 育成ドラフトの第一期生が、ソフトバンクと楽天でプレーした小斉祐輔氏(40)だ。当時はドラフト会議で、指名漏れした選手に各球団が直接連絡して入団交渉をしていた。

 

「ドラフトで指名されず、社会人野球に進もうかと考えていたんですが、会議の1カ月後にソフトバンクから連絡が入り、『育成で指名したい』と。正直、当時は仕組みもよく分からなかったんですが、とにかくプロの世界に入れるならと快諾しました(笑)」

 

 年俸360万円、背番号121での入団だった。1年めからウエスタン・リーグで首位打者争いをしていたこともあり、2006年5月24日に支配下選手の権利を勝ち取る。ただ、支配下登録され、逆に身が引き締まる思いになったという。

 

「育成のままなら、球団に3年間は面倒見てもらえる契約でした。でも、支配下選手になれば、成績次第ではその年のシーズン終了後にクビを切られることもあり得る。喜んでばかりいられませんでした」

 

 同年6月には一軍の選手登録となり、育成出身として、一軍での初ヒット、初打点、初本塁打を記録。その後楽天で4年間プレーしたが、ケガもあり最後には育成に戻った。「少ないチャンスをものにできなかったのは、自分の実力でしたが、育成だからこそハングリー精神を持てた」。小斉は、2015年に引退。プロ野球人生をこう振り返った。

 

 2009年の育成ドラフトで阪神から2位指名を受けた田上健一氏(35)。翌年、キャンプ途中からオープン戦終盤まで一軍に帯同。3月29日には支配下選手契約に移行するとともに、背番号も126から61に変更された。

 

「阪神では最速で支配下登録されたと思います。僕は育成選手はプロじゃなく、練習生と思っていましたから、とにかく必死でした。キャンプはまずアップから始まりますが、僕はこの時点でフルパワーで動けるように事前にアップはすませていました。ほかの選手と明らかに違うので、コーチらの目に留まるんです。『あまり無理するなよ』と言われましたけど、とにかく必死で毎日アピールし続けました」

 

 育成時代は、プレーではなく、精神面で堪えたという。

 

「支配下選手になれないのでは、という不安は常にありました。キャンプの夜間練習がないときもコーチを呼んで、『スイングを見てください』と頼んだり、自分からコーチの部屋に行ってアドバイスを求めたり。育成選手は支配下選手と違って、何年も見てもらえる立場ではない。年間で上がれるのは10人中多くて2人。その枠を取るのは本当にきつかったですね」

 

 2015年、開幕を一軍で迎えるも、死球により戦線離脱。全日程終了後に戦力外通告を受け、その後現役を引退した。

 

 28歳の“遅咲き”でプロ入りしたのは、2008年に楽天から育成1位指名された森田丈武氏(42)。山梨学院附属高卒業後は社会人や独立リーグの香川オリーブガイナーズでプレーしていた。いちばん辛かったのは、練習量だったという。

 

「28歳という年齢は、“伸ばす”より体力をキープする年齢です。でも、キャンプでは若手と同じ練習を科されます。コーチは育成選手を育てたい気持ちが強いですからね」

 

 ハードな練習は体力を削っていったが、1年めは二軍でクリーンアップをまかされるなど、好成績を残した。結果、6月10日に支配下選手になったが……。じつは森田氏は入団時、球団に隠していたことがあった。籍は入れていなかったが、妻と子供がいたのだ。

 

「入団時の年俸は300万円程度で、とてもじゃないけど家族を養えませんから、家族がいることを隠して寮に入ったんです。ただ、6月の初めだったと思いますが、二軍監督にバレた。『ちゃんと籍を入れろ』と言われたんですが、『だったら支配下選手にしてください』と言いましたよ。それが効いたのか、支配下選手となって寮を出ました(笑)」

 

 2011年に戦力外通告を受け、プロ野球人生を終えた森田のプロ野球人生は、3年だった。

 

■一軍に上がるため、「先発転向」の挑戦

 

 2015年の育成ドラフトで中日から3位指名を受けたのは、三ツ間卓也氏(31)。2022年に現役を引退したばかりだ。「必死で結果にこだわりました」と入団した当時を振り返る。

 

「その結果、二軍ではおもに中継ぎとして5勝2敗1セーブの好成績を残せた。しかし、自分より成績が悪い二軍の選手がいたのに、支配下選手になれない。コーチに『なぜですか』と聞きに行くと、『一軍に同じサイドスローの中継ぎが2人いて被る』というのです。そこで提案されたのが、先発挑戦でした。一軍に上がるためならと奮起した結果、『フェニックスリーグ』という宮崎の教育リーグで先発完封し、ようやく11月25日に支配下選手になれたんです」

 

 育成時代が長かっただけに、お金の面では苦労した。

 

「年俸300万円では贅沢なんかまったくできない。支配下選手は休日前は外食で、それもタクシー移動。僕らは近場のスタバに電車で行っていました。また、一軍の選手は用具は無制限でもらえていましたが、僕は年間でグローブが2個支給されるだけ。スパイクも壊れれば、スポーツ店に行って自腹で直していました」

 

 彼を悩ませたのは、お金の面ばかりではなかった。

 

「とくに困ったのが怪我をしたとき。『チームドクターには絶対に言わないで』と、内緒で町医者に診てもらいました。育成選手は、少しの怪我でも契約に影響する。その不安が常にありましたね」

 

 今回の5人で最長となる2年の育成期間を経たのが、2011年に横浜DeNAから育成2位で指名された西森将司氏(35)だ。1年めは声がかからず、2年めの2013年7月17日にようやく支配下となった。

 

「2年めに大村巌コーチと出会い、スイッチヒッター転向をすすめられたんです。捕手では、元ヤンキースのポサダくらいしかおらず不安でした。でも『絶対に3割を打たせるから』とマンツーマンで教えてもらうと、二軍ながら6月には3割に打率が上がった。無謀に思えた挑戦ですが、本当にやってよかった」

 

 2019年に現役引退。7年のプロ野球人生をすがすがしく語った。

 

 育成から一軍へ大成した選手たちー。彼らの共通点を、前出の小川氏に聞いた。

 

「育成から成功していった選手には体の強さに加え、気持ちの強さがあります。ハングリー精神を持って努力できる。やらされるのではなく、自分からやれる向上心の高い選手が伸びていきます」

 

 同じプロ野球の世界にいながらも、華やかさからは最も遠い場所に身を置いた状況で、ひたむきな姿勢で挑み続ける逞しさが求められているという。今年はどんな無名の原石たちに運命の扉は開くのか。

( 週刊FLASH 2023年11月7日号 )

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