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「勝っても腕立て伏せ20回の罰」尊富士、恩師が語った強さの秘密と優勝の裏にあった「2年前の約束」

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2024.03.30 18:21 最終更新日:2024.03.30 18:45

「勝っても腕立て伏せ20回の罰」尊富士、恩師が語った強さの秘密と優勝の裏にあった「2年前の約束」

恩師・越後谷監督(左)と握手する尊富士

 

「気力だけで取った」

 

 先の大相撲春場所で、新入幕の尊富士が歴史的快挙を成し遂げた。右足首の靭帯損傷で千秋楽の出場も危ぶまれるなか、豪ノ山を押し倒して13勝2敗とし、1914年夏場所以来となる110年ぶりの新入幕初優勝を果たしたのだ。優勝インタビューでは、14日目に痛めた右足首を踏まえて「正直、無理かと思った」と当時の心境を吐露した。

 

 

 そんな “大物ルーキー” が相撲を始めたのは祖父・工藤弘美さんの影響だった。弘美さんは草相撲の強豪で、尊富士は保育園のころからマンツーマンで鍛えられた。ただ、当時は遊び盛り。ほかにもやりたいことはあったが、稽古のあと弘美さんが買ってくれる大好物の鶏の唐揚げ食べたさに厳しい稽古にも耐えたのだという。

 

 小学校5年生になると「つがる相撲クラブ」(青森県)に稽古の場を移す。同クラブの越後谷清彦監督が語る。

 

「同年代の子供と比べると体は大きくはなかったんですが、草相撲で強かった祖父が教えていたし、小4ではわんぱく相撲全国大会で個人ベスト8、団体優勝とすでに結果を出していたんです。

 

 弥輝也(尊富士)のことは幼いころから知っていましたが、入ってきたときは勝ち方を知っているという印象でした。立会いで当たって右の上手が取れれば投げたり、左の下手が取れれば押してからの肩透かしやはたき込みなど、技も多彩だったんです。

 

 でも、この取り口だと全国大会で上位の子供と当たると負けてしまうんです。ようするに楽して勝とうという取り口でした。なので、とにかく前に出る相撲を徹底させました。勝ち方よりも前に出る相撲だといい続けたんです。

 

 もちろん最初からできたわけではありません。でも、彼のいいところは努力し続けられること。徐々にですが、前に出る相撲の形ができていったんです」(以下同)

 

 大きく成長したのは、つがる市木造中に転校してからだった。

 

「もともとは金木中でしたが、1年生のとき、メンバーが多く団体戦に出られることもあって転校しました。ときどき叩き込みなど楽に勝とうとする相撲が見えたんですが、そんなときは勝っても腕立て伏せ20回の罰を与えたんです。いまならパワハラになってしまうのかな(笑)。弥輝也は、その罰が嫌で前に出る相撲に徹していったんだと思います」

 

 指導し始めたころは腕立てはできず、体も硬くて股割りはもちろんのこと、四股も満足に踏めなかったと言う。

 

「中学1年生で目に見えて強くなった。前に出続け、できなかった腕立ては300回以上できるようになりました。努力が実を結んだのもありましたが、この子は『強くなりたい!』といった気持ちを隠そうとしなかった。素直に僕の指導を受け入れてくれたけど、罰を含めて怖かったのかもしれません(笑)。いろいろな取材でも『あのころがいちばんきつかった』と語っていますしね」

 

 木造中3年時には、全国都道府県中学生個人で3位に入るなど、その名は全国に轟いた。その結果、高校は相撲の強豪で知られる鳥取城北高に進んだ。

 

 同校では1年時から主力として活躍するが、2度、膝の大ケガを経験する。

 

「伊勢ケ濱部屋は、合宿の際、うちの稽古場を使っていた関係で、高校卒業する際、親方が直々に『卒業後はウチの部屋に来ないか』と誘ってくれたんです。

 

 ところが、弥輝也は『行きません!』と即答でした。親方は何度も声をかけてくれたんですが、本人の意志は固かったですね。高校時代に膝の大きなケガを2度やっていましたから、角界に進むには不安が大きかったのでしょう」

 

 その後、日大に進むが、「卒業後は就職するつもりだった」という尊富士。転機が訪れたのは大学2年生のときだ。

 

「そのときにまた膝をやってしまったんですが、その後、完治しました。伊勢ケ濱親方はその後もずっと気にしてくれていて、再度部屋に誘ってくれました。

 

 本人は相当迷っていたんですが、横綱の照ノ富士が『俺も膝の大ケガを経験した。それで序二段まで落ちたけど、やる気さえあればやっていける』と声をかけてくれたんです。

 

 何度も食事にも誘ってくれたと聞いています。その結果、角界入りを決めたんです。横綱の言葉がいちばん大きかったと思います」

 

 越後谷監督は、尊富士が角界入りの際、2人である約束事を決めた。それは関取(十両以上)になるまで青森に帰ってこないということだった。そして、その約束はわずか2年足らずで果たされることになる。

 

「2022年の前相撲から、わずか2年弱の2024年1月場所で十両昇進を決めたわけですからね。帰ってきたときはなんとも言えない気持ちになりましたよ。道場に初めて来たときは腕立てもできなかった子がここまでになった。立派ですよ。

 

 じつは『記録よりも記憶に残る力士になれ』と言ったのは、このときが初めてなんです。日ハムの新庄(剛志)監督の言葉なんですけどね。弥輝也も気にいってくれたみたいでよく使っていますよね。

 

 ただ、本当に彼にこの言葉をいったのはこの一度だけ。マスコミの方はオーバーに私が言い続けたとしていますが(笑)。

 

 ただ、その気持ちは本心です。みなさんに応援される、愛される力士になってほしい。そして、まずは大関ですね。そこで結果を出し、応援される力士になれば、黙ってても横綱のほうが寄ってきてくれると思っていますから。

 

 結果を出すには実力だけではダメ。絶対に天狗になるなと。これは部屋の女将さんにも頼んでいて、『もしそうなったら、すぐに潰してください』と頼んでいます(笑)」

 

 ここに来て、モンゴル人力士だけでなく日本人力士の活躍も目立ってきた角界。その急先鋒として、さらなる活躍を期待したい。

( SmartFLASH )

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