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元巨人軍オーナー・渡辺恒雄さん死去…素顔を知る同業者が明かす「スポーツ界」への大貢献、「たかが選手」の問題発言も
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2024.12.19 19:50 最終更新日:2024.12.19 19:51
2024年12月19日未明、読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、元巨人軍オーナーの渡辺恒雄さんが、都内の病院で亡くなった。98歳の大往生だった。
渡辺さんは、1950年に読売新聞社に入社し、政治部の記者として辣腕ぶりを発揮。歴代総理を長く担当したが、特に中曽根康弘元総理大臣とは公私にわたっての付き合いで、“懐刀” とさえ言われた。
1991年には読売新聞社の社長に就任。2004年からは12年にわたって同社の会長を務めた。
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「“ナベツネさん” といえば、スポーツ界で発揮した多大な影響力で知られます。1993年にプロサッカーリーグ、Jリーグが創立。初代チェアマンだった川渕三郎氏は、『チーム名から企業名を外す』という方針でしたが、渡辺さんは断固反対。2人のバトルは数年にわたって繰り広げられました。また、2001年から2年間、大相撲の横綱審議委員会の委員長も務めています。
1996年には巨人のオーナーに就任しましたが、“巨人愛” を隠そうとはしませんでした。『金は出すが口も出す』のスタイルで、表に出る機会がよりいっそう増えました」(スポーツ記者)
12球団のオーナー会議でもその姿勢は変わらず、ドラフト制度の改革やフリーエージェント(FA)の導入など、球界の変革にも尽力した。
ただ、独善的なスタイルは、ときに “事件” につながることも――。
2004年に近鉄とオリックスが合併し、楽天が誕生するなどした球界再編では、1リーグ制を支持。そのやり方があまりにも強硬だったことで、2リーグ制維持の選手会と激しく対立した。この際、選手たちに「たかが選手」と発言したことで、選手たちだけでなく、世間さえ敵に回すこととなった。
また同年のオフには、巨人がドラフトで指名すると見られていた大学生投手に「栄養費」と称して現金を渡していたことが発覚。このとき渡辺さんは、「多くの関係者がプロ野球をどう発展させるかを真剣に議論している大事な時期に、ルール違反を犯した責任は重く、自らの道義的な責任も痛感しており……」というコメントを残し、オーナーを辞任した。
「当時は、かなり大きな騒動となりました。なにしろ『たかが選手』の発言の年でしたから、渡辺さんはそうとう叩かれました。
でも、ここからが一般的なオーナーと違うところ。少しはおとなしくなるのかと思いきや、わずか1年で球団会長という新しいポストに就任しましたから(笑)」(スポーツ紙デスク)
巨人の監督人事では迷走したこともあった。
2003年、巨人は3位とAクラスを守ってシーズンを終えたが、まだ2年めだった原辰徳監督を解任させ、堀内恒夫を監督に迎えた。
原は2年間で1位、3位と結果を出していただけに、驚きの解任劇となった。さらに、この問題を大きくしたのが「読売グループ内の人事異動だ」と発言し、ヒンシュクを買ったことだった。
「自分でも『俺は独裁者だ!』と呼んでいた一方、さまざまなことで迷走もありました。気に食わない質問をされると『馬鹿者!』と怒鳴ることもしょっちゅう。でも、政治部記者出身ですから、話を聞きに行けば、何かしら話してくれましたね。
その際は、ぶっとい葉巻やパイプをところかまわず吸いながらでしたが、今ならマナー違反でたたかれたでしょうね(笑)。この数年でずいぶん痩せられましたが、先月くらいまでは、定期的に本社に顔を出していたようです」(同)
賛否両論はあったが、スポーツ界に新たな風を吹き込んだことは間違いない。
( SmartFLASH )