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「世界のナベツネ」渡邉恒雄さん死去…“ブンヤ仲間” が本誌に明かしていた「オヤジキラー」驚愕のテクニック

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2024.12.19 20:25 最終更新日:2024.12.19 20:25

「世界のナベツネ」渡邉恒雄さん死去…“ブンヤ仲間” が本誌に明かしていた「オヤジキラー」驚愕のテクニック

渡邉恒雄さん

 

 12月19日、読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、元巨人軍オーナーの渡邉恒雄さんが、都内の病院で亡くなった。享年98。歯切れのよい “江戸弁” で、政治からスポーツまでありとあらゆることに正論を吠えた。

 

 1926年生まれの渡邉さんは、東京出身。開成中学から旧制東京高校を経て、東京大学へ進んだ。

 

 中学時代の渡邉さんは、当時の少年たちが野球に熱中するのを尻目に、柔道に打ちこんだ。それも力で相手をねじ伏せようとする、いかにも渡邉さんらしいスタイルだったという。

 

 

 東大時代は、共産党の「東大細胞」の一員として政治活動に熱中する。だが、党幹部と対立し、共産党とは絶縁した。

 

 1950年、読売新聞社に入社し、2年めには政治部記者になった。渡邉さんがめきめきと頭角を現わすのはここからだ。大物政治家に取り入るのがうまいため、「オヤジキラー」というあだ名を頂戴したという。

 

 毎日新聞記者時代から “ブンヤ仲間” として深い親交があった政治評論家の三宅久之氏(故人)が、2004年5月、本誌の取材に若き日の渡邉さんの素顔を語っている。

 

「ナベちゃんは、大野伴睦(衆院議長や国務大臣を歴任した自民党の大物政治家)に大変かわいがられていました。当時は派閥の全盛期でね。ナベちゃんがしたことは情報収集。選挙相手の分析とか、票の分析。当時は誰もやっていないことでした。

 

 選挙後の打ち上げでは、ほかの人間を押しのけて、大野伴睦の隣に座って酒を飲んでいた。それくらいのパワーと、先見の明がありました」(週刊「FLASH」2004年6月8日号、以下三宅氏の発言は同記事より引用)

 

 有力議員のために、ライバルの分析や票読みまでする新聞記者――当時の敏腕政治記者は、そうした “驚愕テクニック” を使って政治家のフトコロに入ったのだという。

 

 1968年にはワシントン支局長、1970年には政治部長と、出世街道を驀進し、1991年、代表取締役社長の座に就いた。

 

「記者上がりの社長は、たいていダメな人が多いのですが、ナベちゃんは違う。経営能力に大変秀でている。ナベちゃんは読売新聞の9代目社長の務台光雄氏にも大変かわいがられてね、帝王学を学ばされたんです。新聞の命は販売であると教えられ、販売部に行かされた。そこで営業能力を培ったんだ」(三宅氏)

 

 読売新聞の社長時代、渡邉さんは各都道府県の新聞販売数をきちんと把握していた。それも、ただ単に数を覚えているだけではない。

 

「巨人軍がどこに遠征すれば、その地域で何部部数が伸びるとか、たちどころに数字が出てきますよ。たとえば、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)が東京に移転するとき、神奈川では何部減るが、その代わり調布を中心とした都内で何部伸びる、トータルでプラスになる──と数字をポンポン出して答えていましたね」(同)

 

 三宅氏によれば、渡邉さんは思いつきで放言している身勝手な人物ではなく、一見、途方もないことを言っているようで、じつは常に周到な計算をしていたという。

 

 2004年、近鉄とオリックスが合併し、楽天が誕生するなどした球界再編で、渡邉さんは1リーグ制を支持。そのやり方があまりにも強引だったことで、2リーグ制維持の選手会と激しく対立した。この際、選手たちに「たかが選手」と発言したことで、大きな反発を受けた。

 

 だが、三宅氏によれば、これも計算だという。

 

「あくまでリップサービス。話題づくりの一環です。こう言えば選手たちが反発して、スポーツ新聞的には面白くなるのではないかという目論見がある。新聞記者もそこらへんの話を期待しているわけですから。スポーツ紙のぶら下がりの会見は、公の記録としては残らない。だからやるんですよ」

 

 同年、堀江貴文氏率いるライブドアが、近鉄買収に名乗りをあげた。このとき、渡邉さんは「僕が名前も知らないような会社には売れない」と言って、野球ファンから「何様だ」と叩かれた。

 

 しかし、三宅氏は、言わんとするところは別にあると指摘している。

 

「(ライブドアのような)若い世代の企業を見ていると、日拓ホームフライヤーズを思い出します。よく似てるんですよ。日拓は1973年に球団を買収して、わずか1年で、チームを日本ハムに売った。企業の名前は売れ、十分に元を取ったわけです。

 

 一度このような企業に球団買収を許すと、同じような企業がどんどん出てくる。1年か2年で球団を売るような企業が続出して、チームがガタガタになるんです」

 

 先見の明と深い洞察力で知られた渡邉さんは、2007年、カンヌ国際広告祭で傑出したメディア人に贈られる「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。

 

「世界のナベツネ」の異名で知られた渡邉さんは、プロ野球はもちろん、日本の未来、あるいは世界の将来をいつも考え続けた大人物だったのだ。

( SmartFLASH )

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