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レジェンド・鶴見虹子の語る 平成の体操界秘話「男子選手とは挨拶も禁止でした」

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記事投稿日:2025.03.05 20:00 最終更新日:2025.03.05 21:50
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
レジェンド・鶴見虹子の語る 平成の体操界秘話「男子選手とは挨拶も禁止でした」

鶴見虹子(撮影・中山雅文)

 

「小5くらいから、体操はずっと辞めたかった。もう練習きつすぎて。夜10時とか11時くらいまでやって。夜ご飯は毎日車の中でお弁当。当時だから先生に叩かれたりもするし」

 

 2009年世界選手権の個人総合で銅メダル、段違い平行棒で銀メダル。全日本選手権個人総合6連覇などを成し遂げた体操界のレジェンド・鶴見虹子。彼女が体操生活を振り返り、そして引退後の『意外な転職』を明かした。

 

「体操を辞めなかったのは、母がうまかった。毎日、私が『辞めたい』と言うと『辞めちゃうの? こんな頑張ってきたのにもったいない』とか言われるんですよ。私も単純だから、そういわれるとまた次の日練習に行って、また『もう辞めたい』みたいな(笑)。母は聞き飽きてたんじゃないですかね。小学校高学年の時がいちばんきつかった。中1くらいになって、覚悟を決めました」

 

 

 小1で新体操を始めた鶴見は、体が小さかったこともあり小2で器械体操に転向。そして小3のころ、千葉県佐倉市のフジ・スポーツクラブで、中国から来た陶暁敏コーチと運命の出会いをする。

 

「先生は来日したばかりで日本語全然しゃべれないんだけど、ジェスチャーとかで教えてくれて。1年くらいたったときに『あなたは頑張ったらオリンピックに行けるけど、どうする』と言われたんです。私も小さいからよくわからないから、『うん』て答えたら、地獄のような練習が始まって。学校終わって、自分で電車乗ってフジ・スポーツに16時過ぎに着いて、だいたい22時くらいまで練習。帰りはお母さんが迎えに来てくれる。土日はもう、朝から夜中まででした」

 

 厳しい指導で才能が開花。小6のとき、塚原千恵子監督率いる名門・朝日生命体操クラブに移る。陶コーチも同クラブのコーチに就任した。

 

「朝日生命も厳しいんですよ。携帯持っちゃダメだったし。毎日体重測定があって、何キロって決められた体重を100グラムとかでもオーバーすると、『外で走ってこい』みたいな。練習させてもらえないのがきつかったですね。15年前なんで、栄養学も今ほど重要視されていない時代で、果物も乳製品もダメ。肉と野菜以外食べるなみたいな指導で、主食ひじきみたいな感じでした」

 

 男女交際ももちろん禁止。

 

「男子としゃべったら怒られる。合宿は男女いっしょにあるんですが、男子に挨拶しただけで怒られる。なんか静かにすれ違ってました。私たちが怒られることを男子も知ってるから、話しかけて来ないですし」

 

 そもそも演技中に笑うことが厳禁だった。

 

「当時は不真面目だといわれたんですよ。私が体操をやめるロンドン五輪くらいのときにちょっと変わったんですけど、それまでは表情なんか点数に反映されないから、ちゃんと真面目にやってって。『ヘラヘラしてる場合じゃないでしょ』みたいな雰囲気でした。誰も笑わないし、喋らない、殺伐としてた。いまは『チームとして和気あいあい』みたいな雰囲気だけど、あんなの絶対なかった(笑)」

 

 そんな厳しい環境の中、練習に打ち込み、2006年から2011年まで全日本選手権6連覇をはじめ、鶴見は輝かしい実績を残した。2008年には北京五輪で団体5位、個人総合で決勝進出という快挙を成し遂げる。

 

 だが2011年11月、鶴見は朝日生命体操クラブを退部してしまう。

 

「きっかけは怪我でした。2009年から肩がボロボロで、それでも世界選手権でメダル取りました。でも翌年はもうダメで、世界選手権でボロボロに失敗して。そのとき、塚原千恵子先生に『あなたのためにロシアからコーチを呼んでいるのに、どうしてこんな結果なの』って言われたんです。それで私は『なんでこんな頑張ってるのに、結果しか見てないの』って思ったんですよ。それまでトントン拍子でずっと良かったから、千恵子先生もショックだったのかもしれないですけど。そのときは『この人は私じゃなくて結果が欲しいだけなんだ』って思っちゃった。信頼関係が崩れました」

 

 その後、陶コーチを頼ってアメリカや中国で練習し、帰国して日本体育大に入学したが、かつての輝きは取り戻せなかった。両脚アキレス腱を大怪我したこともあり、2015年に競技を引退した。

 

「反抗期が親に対してなくて、千恵子先生に対してあった感じでしたね。今振り返ると私の全盛期は朝日生命にいたときでしたし、千恵子先生には感謝しています」

 

 引退して思ったことは「これから自由に食べられる」ということだった。

 

「思ったけど、そう思うとそんなには食べなかったですね。ただ、牛丼は引退して、大学を卒業して初めて食べました。あとは、競技で18年間くるくる回っていたからか、回らなくなったら逆に車酔いみたいな症状になりました。治るまで1カ月くらいかかりましたね」

 

 最初についた仕事は、やはり体操関係だった。

 

「ベンチャー企業の方を紹介していただいて、その方の会社で体操教室をやりました。けっこうブラックだったけど、2年間一生懸命やりました。そのあと、芸能の仕事をしたくなって事務所に入った。そこを辞めた後ですね、『自分は世間をわからなすぎだ』と気が付いて、アルバイトをたくさんしました。宅配のピザ屋さんもしたし、国会議員の秘書もやりましたよ」

 

 秘書をやめた後は、夜のアルバイトもした。

 

「いままで体操がすべてだったんですけど、コロナ禍になってずっと家にいてふと考えたら『私には何もないわ』と思って。新しいことやるにも、まずは人脈を作らなきゃって考えて、まずは当時住んでいた中野のラウンジで夜のバイトを始めました。そうしたら楽しくて。店長に『そんなにいつも楽しそうに働いてるの、お前だけだよ』って言われたくらい(笑)。それまでは会話が苦手だったのが、そこでちゃんと人前でも喋れるようになったんです」

 

 そこにはかつて「不愛想」といわれたアスリートの姿はなかった。

 

「楽しく会話して、時給2500円って恵まれてるじゃないですか。1年間で指名もたくさんもらえるようになって、六本木に移ってもう1年。そのあと銀座でもやりました。銀座はお客さんのレベルが半端じゃなかったですけど、ちょっとノルマがきつすぎましたね」

 

 アルバイト経験を経て、いま鶴見は体操の世界に戻ってきた。

 

「ご縁があっていまはまた、体操教室をやっています。引退して8年、そろそろまた体操をするタイミングと思い、頑張って企画書を書いて3年分の収支の見込みとか全部考えて、始めました」

 

 『鶴見虹子体操School』はいま新宿・外苑前・銀座の3教室。それ以外にイベントの仕事が来たら、行って教えたりもしているという。

 

「私の教室では、体操のレッスンの中に、人とコミュニケーションをとるスピーチの練習も取り入れています。スピーチができて、挨拶ができて、体操もできる。教育としてもいいじゃないですか。最初私が辞めたときに、オリンピックまで行ってこんなにお給料少ないんだったら、五輪じゃなくて東大に行けばよかったな、って思っちゃったんですよ。なんかこんな頑張ってきたのに、体操競技ってかわいそうだなって。だから体操の世界を全然違う形にしたいな、と思って、やっています。個人のYouTubeチャンネルも始めたので、よかったら見てみてください」

 

 そして、もうひとつ。

 

「私のスクールのなかで、体操ができるアイドルをプロデュースしているんですよ。私が3年間育てた2人組で、一人はある有名な選手のお嬢さんです。もうダンスだけなら人前に出してもいいレベルで、最近ボイストレーニングを始めました。お披露目、楽しみにしていてください」

 

つるみこうこ
32歳 1992年9月28日生まれ 埼玉県出身 小2で体操をはじめ、2006年、14歳で全日本選手権の個人総合で初優勝。以降、全日本選手権6連覇、2009年世界選手権の個人総合で銅メダル、段違い平行棒で銀メダルなど輝かしい実績を残す。また2008年北京五輪、2012年ロンドン五輪では体操女子のエースとして活躍。2015年に引退。現在は都内3カ所で鶴見虹子体操Schoolを運営、また公式YouTubeチャンネル「虹子チャンネル」も人気を博している

 

(取材コーディネート モラモラプレス)

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