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長嶋茂雄さん逝去“永遠のライバル”が語った「ミスタープロ野球」の素顔「全打席空振り三振のすごい新人」「彼が来たら4番を奪われていた」

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記事投稿日:2025.06.03 19:20 最終更新日:2025.06.03 19:36
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
長嶋茂雄さん逝去“永遠のライバル”が語った「ミスタープロ野球」の素顔「全打席空振り三振のすごい新人」「彼が来たら4番を奪われていた」

2009年のパーティで

 

 6月3日、ミスタープロ野球長嶋茂雄氏が逝去した。「4番サード」を代名詞とし、3番を務めた世界の本塁打王・王貞治氏とともに「ONコンビ」と親しまれ、引退後は巨人監督としてリーグ優勝5回、日本一2回を果たした。

 

 現役時代、一身に人気を集める長嶋氏のことを「向日葵(ヒマワリ)」に、自らを「月見草」にたとえて長嶋氏をライバル視していた人物がいる。三冠王を獲得し、ヤクルトをはじめ複数の球団で通算24年の監督生活を送った野村克也氏だ。

 

 野村氏は、長嶋氏と同学年である。野村氏は1935(昭和10)年6月29日生まれ。長嶋氏は1936(昭和11)年2月20日生まれ。ともに昭和を代表する大打者であり、監督としても同じセ・リーグでしのぎを削った。2020年に亡くなった野村氏は生前、長嶋氏のことをよく語っていた。野村氏の言葉から、往年の長嶋氏を回顧する。

 

 

 まず、監督としての長嶋氏については、野村氏はあまり評価していなかったといえるかもしれない。「カンピューターには負けられない」「ホームランバッターばかりをそろえても機能しない」などと当時、長嶋巨人を痛烈に批判していた。長嶋巨人と野村ヤクルトが相対したのは、1993〜1997年の5年間。この間、リーグ優勝は巨人2回に対してヤクルトは3回と、二強時代を築いた。「個々の能力では劣るかもしれないが、ウチは最新の野球をしている。選手たちもそう思えることで自信を持って戦えていた」。当時のヤクルトを振り返り、野村氏はこう語っていた。明らかに長嶋巨人を意識した言葉だった。

 

 繰り返される長嶋巨人への辛辣な発言。野村氏の本音もあっただろうが、じつは“野村流”の作戦でもあった。「ヤクルトファンはだいたいアンチ巨人のはず。だから、意識的に巨人を批判してマスコミに取り上げてもらえればファンも喜ぶだろうと。そしたら三奈ちゃん(長嶋氏の娘。スポーツキャスター)に本気で嫌われたのは参ったな。球場で会っても、あいさつもしなくなっちゃった」と苦笑い。野村氏に対して本気で腹を立てていた巨人ファンも、当時は多かったことだろう。

 

 ただ、選手としての長嶋氏について、野村氏は高く評価していた。捕手として活躍した野村氏の代名詞ともいえる打者への「ささやき戦術」が、「通用しない数少ない選手」だったという。打席に立った長嶋氏に「チョーさん、最近、銀座に出てるの?」と聞いても、「ノムさん、このピッチャーどう?」などと返され、「そんなこと聞いてない。会話が成り立たない。さすが長嶋」とボヤくのは、野村氏の講演での鉄板ネタだった。

 

 それはさておき、技術面で野村氏が舌を巻いたのは対応力の高さだった。「内角に来ると読むと、打つ前にパッとバットを短く握って、見事に打ち返される。あれはびっくりした」と晩年、まるで昨日のことのように目を丸くしていた。さらに長嶋氏のデビュー戦。当時の国鉄の大エースである金田正一氏相手に、4打席4三振。記者からそのときの様子を聞いた野村氏は、すべて空振り三振だったと知って大いに驚いた。「普通、初めて金田さんと対戦したら、手も足も出ない。それが全部フルスイングだったと。すごい新人だなと思ったよ」と振り返っていた。

 

 スーパースターとしてのプロ意識の高さも買っていた。シーズンオフにおこなわれる日米野球でのこと。長嶋氏はつねに全試合全イニングフル出場。少し心配になった野村氏は思わず声をかけた。「チョーさん、たまには休んだらどう? シーズン中から休みないでしょ」。長嶋氏の答えは「ノムさん、オレは休めないんだよ」。ファンはみな、人気絶頂である長嶋氏や王氏を見に来ている。今日の試合を逃したら、次回いつ来られるかわからないというファンもいる。だから休めないという長嶋氏から、プロ野球そのものを背負っている存在としての、強烈なプロ意識を感じ取ったという。

 

 野村氏は京都府網野町(現・京丹後市)という、本人いわく「ド田舎もいいところ」出身で、子どものころはラジオで巨人戦の中継しか聴くことができず、大の巨人ファンだった。だが、巨人には1学年上に甲子園で活躍したスター捕手が入団しており、レギュラー捕手の年齢が高い南海に狙いを定めて、入団テストを受けたという経緯がある。

 

 そのせいか、同学年、しかも巨人で華々しく活躍する長嶋氏に対して、うらやむ気持ちがないといえば嘘になるだろう。しかし、選手・長嶋茂雄を評する野村氏の言葉は、ときに畏敬の念を含んでいた。同時代に活躍した同い年のスーパースターとして、長嶋氏の偉大さを誰よりも認めていたのは野村氏だったのかもしれない。

 

 話はさらに、長嶋氏のプロ入り前にさかのぼる。当時、立教大学には2人の投打のスターがいた。投手では杉浦忠氏、そして打者では長嶋氏だ。ドラフト制度のない時代、南海ホークスの鶴岡一人監督は、立教大OBの大沢啓二氏を窓口に、2人の南海入りを画策。一時は「長嶋も杉浦も南海で決まり」との話がチーム内でも知れわたる。しかし最終的に長嶋氏は巨人に入団し、杉浦氏だけが南海入りとなった。

 

 このころ、1957年(長嶋氏の大学4年時)には30本塁打で本塁打王を獲るなど、南海の4番を任されるようになっていた野村氏。「長嶋が来たら4番の座を追われるのかも」と思っていたため、急転の巨人入りと聞いてホッとした気持ちもあったという。

 

 しかし、長嶋氏と野村氏の3・4番が実現していたら、その後のプロ野球界はどうなっていたのだろうか。天国でいま、そのデュオが実現しているのだろうか。あるいは、長嶋監督、野村ヘッドコーチの侍ジャパンが見られるのだろうか。はたまた、ようやく休めるようになった長嶋氏を、野村氏がいたわっているのだろうか。

 

文・小島一貴

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