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日本サッカー協会、山本昌邦氏を技術委員長に…アテネ五輪出場を実現させた「不屈のメンタリティ」の背景

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記事投稿日:2025.10.22 16:30 最終更新日:2025.10.22 16:36
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
日本サッカー協会、山本昌邦氏を技術委員長に…アテネ五輪出場を実現させた「不屈のメンタリティ」の背景

2025年10月20日、記者会見する日本サッカー協会の山本昌邦氏(写真・共同通信)

 

「力を合わせて、この難局をしっかりと乗り越えたい」

 

 10月20日、日本サッカー協会は、空席となっていた技術委員長を山本昌邦ナショナルディレクター(ND)が兼任すると発表した。

 

「前任の影山雅永氏は、パリ行きの航空機内で児童ポルノを閲覧したとしてフランスで有罪判決を受け、10月7日に契約を解除されていました。

 

 わずか2週間弱での後任発表という急転直下の人事でしたが、これには理由があります。現在、モロッコでは『女子U-17ワールドカップ』が開催されていて、有力候補である日本も参加中(第1戦はニュージーランド代表の3-0の快勝)です。

 

 ほかにも男女問わず各カテゴリーの国際大会や親善試合が目白押し。そして、来年には北中米ワールドカップも控えています。技術委員長は、代表チームを中心として仕事をこなしていくだけに、悠長に後任を決める余裕などなかったんです。

 

 これまで、技術委員長には早慶、筑波大のOBが多く就いていたんです。やはり日本サッカー界も『派閥』の世界で、国士舘大の山本氏が就いたことは、ある意味、革命的なことですよ」(スポーツ紙記者)

 

 では、“大役” を兼務する山本氏とは、いかなる人物か。

 

 静岡県沼津市生まれ。日大三島高校、国士舘大学を経て、ジュビロ磐田の前身であるヤマハに入社。大型DFとして活躍し、日本代表にも選出された。1987年の引退後は指導者の道に。1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪には代表のコーチとして、2004年アテネ五輪には監督として3大会連続出場という快挙を成し遂げた。

 

「コーチとして臨んだ2大会には前園真聖、中田英寿、中村俊輔といったスターが揃っていて、歴代屈指と言われました。ですが、監督として臨んだアテネ大会予選には彼らのような選手がおらず、“谷間の世代” と呼ばれたほど。続いていた五輪出場も『2大会で途切れるだろう』と厳しい評価でした。

 

 歴代代表の先輩たちからは『(選手には)厳しさがない』と酷評されたばかりか、協会役員からは『こいつらのためにマッチメイクするのはバカバカしい』とさえ言われたほど。

 

 それでも山本監督はあきらめることなく、中東遠征を繰り返し、悪条件に耐える厳しさを叩き込んだ。レギュラーでも容赦なくメンバーから外し、競争心を駆り立てていきました。

 

 予選は苦戦続きで、アテネ行きを決めたのも最終戦でしたが、メンバーたちは、たくましく変貌していたものです。周囲の評価も一変していて、『よく突破した!』と。

 

 メンバーを見て苦戦するとわかっていて監督を引き受けたわけですから、山本監督は男泣きに泣いていました。このあたりから『苦しいときは山本にまかせろ』と言われ始めたんです」(サッカーライター)

 

 逆境に強くなったのは、高校時代の経験からではないか。かつて本誌は、山本氏のサッカーのルーツである日大三島高を訪ねたことがあった。

 

「彼は中学時代に陸上の400m走をやっていて、県で3本の指に入る子でした。その走力を生かし、サッカー部では1年生からレギュラーになったほど。県でも注目されるようになり、1年生から国体選抜を決める選考試合に参加して目立った活躍をしていました。

 

 でも、静岡の強豪校といえば、中東部の清水、中部の静岡、中西部の藤枝で、日大三島高など東部では下でした。そのため、国体の選考試合に3年続けて出ても、一度も選ばれなかった。それは弱い東部地区の学校の生徒だったからです。

 

 ただ、当時辛酸をなめたことが『不屈のメンタリティ』につながったと思います。悔しさを人一倍経験し、よりいっそう努力をし、競争しなければ勝ち抜けないことを知ったんです。

 

 実際、国体選考の試合から帰ってきたときはすごかった。自分にプレッシャーをかけ、課題を与え、全体練習後も1人で練習していましたからね」(当時のサッカー部関係者)

 

 日本サッカーがピンチなときだけに、山本氏の起用は当然の結果でもある。

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