「本当に悩みましたが、とうとうこの時期が来たなと、決意しました」
9月27日、日米通算25年にも及ぶ現役生活にピリオドを打つことを発表した松井稼頭央(42)。多くの報道陣が駆けつけたなか、できるだけ気持ちを落ち着けるかのように淡々と語っていたのだが……。
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しかし、それから10日余りたった10月9日、CSに向けて宮崎・南郷キャンプで調整中の松井を訪ねると、会見とは違った感情が溢れ出した。
「本音を言えば……できるのであれば、まだやりたい自分がいることも事実。やれる環境があれば、もう1年でもやりたいですよ。なかなか引退に踏み切れなかったのは、年相応ですけど、まだ体が動いていたということ。
ここが自分のなかでいちばん引っかかっていたし、決断できない部分でした。体は動くのに成績がともなわない。でも、体は動くからまだやりたいと、大きな葛藤がありました」
怪我をしているわけじゃない。体も動く。それでも結果が出ない。「そろそろかな」と感じはじめたのは、9月のことだった。
「この時期、登録を外れたんです。本来ならファームで調整なり、試合に出たりするわけですが、一軍帯同を許された。で、一軍のメンバーと一緒に練習して、試合はサロンで観る日が続いた。このとき、なぜか気持ちがすごく楽になったんです。
僕はプレッシャーのなかで戦ってきたんですが、ふと気が抜けたじゃないけど、楽な気持ちになった。そのときですかね、潮時なのかと感じたのは」
引退を決め、まず報告したのは家族だった。
「妻の美緒は薄々感じていたようで、『お疲れさま』と言ってくれました。9歳の長男はひと言、『知ってる』と(笑)。男のコなんで、こんなもんでしょう。
でも、娘は引退を告げると、僕に抱きついて、何も言わずに泣きじゃくっていました。18歳になりましたが、娘なりに引退を感じていたんでしょう。父親として、本当に嬉しかった。
結婚して18年になりますが、同時に18年は野球のことだけ考えてきました。それが許されたのも、家族のサポートがあってのことです。子供たちには、『次はお前らの時代やからな』って言いましたね(笑)」
キャリア25年。思えば松井の野球人生は、“挑戦”の連続だった。投手として1994年にドラフト3位で西武に入団すると、すぐにショートにコンバート。さらに、スイッチヒッターに転向。楽天では外野手も務めた。
「僕のなかで“挑戦”という言葉が、いちばん前向きに考えられていたので。メジャー行きもそうでした。
結果が出ずにバッシングも受けた。メッツ時代は、ホームで4万人の観客のうち、3万9000人くらいがブーイングですからね(笑)。けっこう心がやられましたよ。
でもそれも含め、行ってよかった。ロッキーズに行って、ワールドシリーズにも出られましたし、あの7年間は本当に濃かった。自分で決断したことは、すべて成功だと思っていますから」
そして、松井は最後の戦いに挑む。西武では通算11年めとなるが、じつは一度も日本一に輝いたことはない。
「楽天では日本一になりましたが、西武ではないんです。それがやめる年にリーグ優勝でき、日本一に挑める可能性がある。最高の終わり方ですよね(笑)。
できることをしっかりやって完全燃焼したい。そしてリーグ優勝のときのように、みんなにまた胴上げしてもらいたいね」
そう言ってインタビューを切り上げた松井は、練習が終わって誰もいなくなったサブグラウンドで、一人黙々と走りはじめた。最後にして最大のチャンスを逃す気持ちはさらさらない。
まついかずお
1975年10月23日生まれ 大阪府出身 1994年、PL学園からD3位で西武入団。2004年、FAでメッツ移籍。その後、米で2チーム、2011年からの楽天を経て、2018年に古巣復帰。日米通算2705安打。盗塁王3回
(週刊FLASH 2018年10月30日号)