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わが「契約更改」物語やっぱりグラウンドに銭は落ちていた!
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2018.12.16 11:00 最終更新日:2018.12.16 11:00
球界の冬の行事「契約更改」は球団と選手の駆け引き勝負。走攻守三拍子揃った三塁手として活躍した松永浩美氏(58)には、阪急での若手時代にこんなエピソードが。
「阪急は一軍昇格後、5年間はどんなに活躍しても、大幅アップなしの契約形態でした。入団後に球団から『君の給料はどこから出ているか?』と聞かれ、『球団です』と答えた。
すると『違う。このお金は諸先輩らを見に来たお客さんの入場料なんだよ。まだ君はプロ野球選手じゃない。会社が投資しているんだから』と。
ならば今後は僕らがチームを背負っていくと、前向きな気持ちになれた。だから阪急では、ほぼ一発更改でした」
入場料では、横浜時代の佐伯貴弘が「チケットが高い」と球団に苦言を呈したところ、チケット代の値下げを勝ち取ったという「銭闘」も。
一方で、「一発更改はない」と語るのが、4球団を渡り歩いた山崎慎太郎氏(52)だ。
「11年間在籍した近鉄は、12球団のなかでも特にどんぶり勘定。フロントは最初の交渉では低めの金額を提示して、できるだけ抑えたいというのが見え見え。
だから選手間では、『保留すれば次はアップ』というのがあったから、一発サインはしなかったんです」
当時のパ・リーグで同じく保留が多かったのは日本ハム。1991年オフにはトレンディエース・西崎幸広が、交渉が終わるなり、クラッチバッグを投げつけて大激怒。さらに同日、抑えの武田一浩も「この評価じゃ、抑えをやってらんないよ!」と声を荒らげた。
1980年代の西武で独特な査定に戸惑ったのは松沼兄弟。兄の博久氏(66)が語る。
「毎回、私と弟の雅之は、兄弟ワンセットとして査定されていたような……。現に『先にやった雅之君がこの額だから君もそんなに上がらないよ』と言われたこともあります。
あとは、1989年オフの契約更改。4年ぶりに2桁勝利を挙げ、手ごたえはあった。ただ、それまでは、よくても上げ幅は数百万円単位。そのときも同じだろうと予想していたら、なんと1200万円アップ。じつは弟が引退した年なんです。初めて、松沼博久個人として交渉が進められたのだと、勝手に思っています」
年俸は、勝利への貢献度でアップ額が決まる。だが、目に見えないものを評価されたのは巨人、中日で捕手として活躍した小田幸平氏(41)。
「中日で優勝した年に、『1年間、大きな声を出して盛り上げ、雰囲気を明るくしてくれた。そのぶん上乗せしてあるから』と言われ、数百万円アップしたときは嬉しかった。
よく『グラウンドには銭が落ちている』と言われますが、僕の場合はロッカー、ベンチに落ちていました(笑)」
さすがは、中日時代の福留孝介に「誠意は言葉ではなく金額」と言われた球団である。巨人、横浜で活躍した駒田徳広氏(56)は、巨人時代の更改が忘れられないという。
「1992年オフ、初めて1億円提示があったとき、私は『ちょっと待ってほしい』と。その後『いくら欲しい?』『1億5000万円です』『いや、金額の差が開きすぎている』といったやり取りがあった。
すると、いったん席を外した代表が戻ってきて、電卓片手に『もしこの金額で応じてくれたら、俺の一存で即断する』と。私は『一存で』のひと言を一選手として意気に感じましたよ」
毎年のようにFA選手への高額年俸が騒がれる今の球界。初のFA選手として、年俸高騰のきっかけを作った前出の松永氏が驚愕の体験を語る。
「1994年オフ、ダイエーでのこと。契約書の金額の欄には何も書かれていない。すると代表が、『好きな額を書いて』ですからね。驚きましたよ。でも、10億円とか書けないじゃないですか(笑)。
球界のバランスもあるし。その後、会見に臨んで『こんな清々しい契約更改は初めてです』と言った記憶があります」気になる額は7600万円アップの2億2000万円だった。
(週刊FLASH 2018年12月11日号)