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イチローを超えかけた「知られざる野球選手」がいた

スポーツ 投稿日:2019.09.08 11:00FLASH編集部

イチローを超えかけた「知られざる野球選手」がいた

オタワ・リンクスのチームメイトと

 

 1973年(昭和48年)、王貞治、長嶋茂雄の「ONコンビ」に牽引された巨人が、前人未到の「9連覇」を達成したその年、次代のプロ野球を担うバッターたちが、この世にそろって生を授けられていた。

 

 豪快なフルスイングで本塁打王1回、打点王2回の大砲・中村紀洋(元・近鉄~ドジャース~オリックス~中日~東北楽天~DeNA)。

 

 

 2002年、2003年に2年連続首位打者、通算2120安打の小笠原道大(元・日本ハム~巨人~中日、現・中日2軍監督)。平成最後の三冠王、第1回WBCでは日本代表の4番を務めた松中信彦(元・ソフトバンク)。

 

 そして、不世出の安打製造機の存在を忘れるわけにはいかない。日米通算4367安打を誇る「レジェンド」イチロー

 

 そう括られているわけではない。それでも、昭和48年生まれの選手たちをこう呼んでも、誰も否定はしないだろう。
「イチロー世代」

 

 そのイチローを語っていく上で、欠かせない「枕詞」ともいえるフレーズがある。「日本人初の野手メジャーリーガー」だ。

 

 ところが、これをひょっとしたら奪っていたかもしれない、同世代の選手がいるといえば、一体、どんな名前を想像するだろうか? 

 

 根鈴雄次という野球人がいる。

 

 中学時代から神奈川県内でそのパワフルなバッティングが評判となり、横浜、桐蔭学園、東海大相模など、全国でも名の知れた高校野球の強豪校の間で、激しい争奪戦になった逸材だった。

 

 日本大学付属藤沢高へ指定校推薦で入学すると、最初の練習試合でいきなり「4番」を任され、本塁打を放つという鮮烈デビューを飾った。甲子園で活躍して、プロに行く。そんな将来像を、本人も周囲も当たり前のように描いていた。

 

 ところが、その期待の星は、高校入学からわずか1カ月後に「不登校」に陥ってしまう。真っすぐに突き進んでいくはずだった “野球界の王道” から、早々とコースアウトしてしまったのだ。

 

 自らが「不登校」に陥った当時の「状態」を、根鈴はこんな言葉で表現してくれた。

 

「車でいうなら、ガス欠ですね。給油できなくなって、動けなくなる感じ……といえば、分かりますかね?」

 

 燃料タンクが、空っぽに近づくと、警告音も鳴る。だから、燃料を補給しなければならない。その時期が近づいているのが、自分でも分かるのだ。なのに、何もできない。そして、動けなくなってしまう。

 

「メンタルですよね。『やる気力』がなくなっちゃうんです」

 

 社会生活の中には「そうあるべき」「こうなるべき」という「型」や「手順」のようなものがあるといっていい。

 

 甲子園で活躍して、名門大学へ進学する。
 ドラフト会議で指名されて、プロの世界に入る。
 日本のプロで活躍した後に、メジャーへ挑戦する。

 

 野球界でいえば、こうした「図式」における「あるべきステップ」を順々にクリアできる力を持った選手こそが「スター」なのだ。

 

 高校野球は、上位のカテゴリー、つまりさらなる夢へとつなげていくための、いわば「第1関門」ともいえる位置づけにある。
 根鈴雄次は、その門をくぐった途端、いきなり躓いたのだ。

 

 不登校、引きこもり、留年、高校中退。それらのフレーズは、世間一般で「標準」とみなされている「高校生活」を全うできなかったことを表す “負のイメージ” を帯びている。もう、あいつは終わった――。誰も大っぴらに口には出さなくとも、そう判断しているのだ。しかも、その「負のレッテル」は、ずっとついて回る。

 

 単独渡米、帰国、定時制高、そして東京六大学へ。法政大学という「名門野球部出身」という肩書は、あえて俗な表現をすれば、人生の一発逆転、過去の「負のレッテル」をはがすことができるだけの「輝き」と「説得力」を持っている。
 なのに、根鈴は再び渡米する。

 

 就職もせず、何の保証もない世界へ自ら、足を踏み入れたのだ。

 

エクスポズのユニフォームを着る根鈴氏

 

 2000年。
 26歳のルーキーは、モントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)とマイナー契約を結ぶと、ルーキーリーグから1A、2Aを経て、わずか3カ月で3Aへ駆け上がった。メジャーの一歩手前。メジャー予備軍のカテゴリーだ。

 

 村上雅則、野茂英雄、伊良部秀輝。そうそうたる先人たちが、メジャーの舞台に立っていた。しかし、すべて「投手」だった。2000年当時、日本人の「野手」で、メジャーリーガーになった選手は、いなかったのだ。

 

 イチローが、ポスティング・システム(入札制度)でオリックスからシアトル・マリナーズへの移籍を果たしたのは、2000年オフのことだ。メジャーデビューは、翌2001年。

 

 もし2000年、根鈴雄次がメジャー昇格を果たしていたら――。日本人野手として初のメジャーリーガーとなっていたのは、イチローではなかったのだ。

 

 根鈴には、翌2001年にも、イチローを超えかけるチャンスが、再び訪れていた。

 

「あの時、人生で一番神がかっていました」

 

 マイナーのキャンプで結果を出し続け、メジャーの開幕1週間前まで、昇格への夢をかけたサバイバル戦を生き残ってきたのだ。ひょっとしたら、ひょっとする。

 

 根鈴雄次は、モントリオール・エクスポズ。
 イチローは、シアトル・マリナーズ。

 

 2人がメジャーの開幕ベンチ入りメンバーの25人に入れば、開幕試合の場所、時差を考慮すると「日本人野手初のメジャーリーガー」の栄誉は、根鈴雄次に与えられていた。

 

 不登校、引きこもり、高校中退。
 高校野球をやり遂げることができず、日本のプロも経験していない、本当に「無名のプレーヤー」が、日本の野球の歴史を塗り替えようとしていたのだ。

 

 しかし、2度の「もし」は、いずれも実現しなかった。

 

「今、思っても『たら』と『れば』だらけです。でも僕は、野球がやれないところから、キャリアがスタートしているんです。不登校、引きこもり。一番大事な16歳、17歳、18歳で野球をやっていない。その “下” からの幅を見れば、その『奇跡の幅』だったら、イチローに負けていないですよ」

 

 ともに1973年(昭和48年)生まれ。
 鈴木一朗、10月22日。
 根鈴雄次、8月9日。

 

「僕の誕生日は “や・きゅう” の日なんです」

 

 わずか74日違いの同級生。その2人の野球人生は、一度として交錯していない。イチローが3089本のヒットを積み重ねたメジャーの舞台に、根鈴は結局、一度も立つことができなかったのだ――。

 

 

 以上、喜瀬雅則氏の新刊『不登校からメジャーへ イチローを超えかけた男』(光文社新書)を元に再構成しました。異色のベースボールプレーヤー・根鈴雄次のチャレンジし続ける生き様を、気鋭のスポーツライターが活写します!

 

●『不登校からメジャーへ』詳細はこちら

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