甲子園には出られなかったが、張本は1959年、東映に入団。契約金の200万円で、母に2階建ての家をプレゼントした。そして、みずからに猛練習を課して、日本を代表する打者へと成長していった。
「毎日、素振りを何百回と繰り返して、それで手の皮が厚くなってしまい、そのたびにカッターで削るんです。
足も速いし肩も強いんだけど、『外野から思いっきり投げて肩を痛めたら打撃に影響するから、思いっきり投げんのじゃ』と言っていました(笑)」(東映時代の後輩・後原富さん)
現役時代を知る、スポーツ紙記者が語る。
「『打者は打ってなんぼ。守備なんてカネにならねえことはやらない』が彼の持論。当時、センターは白仁天が守っていて、レフト寄りのフライが上がっても『ハク!』と叫んで取りに行かなかった。生き方が単純明快なんです(笑)」
ちなみに東映時代にも、武闘派の逸話が。1964年の阪急vs.東映で、張本は乱闘の際、スペンサーに小突かれたことに激高し、バットで殴りかかろうとしたのだ。
また張本は東映時代、ゴルフをやらないことでも有名だった。
「オフはシーズンで酷使した体を休めるもの。それに、『ゴルフを覚えて、打撃が狂った野手を何人も見てきたから』とのことでした。当時は『ゴルフなんか止まったボールを打って穴に入れるだけだから、誰にでもできるだろう』という考えだった」(前出・記者)
ただ、甥の張本茂さん(現・至誠館大学ゴルフ部監督)がゴルフを始めると、協力した。
「18歳のときに野球を諦めて、ゴルフを始めようとしたんです。すると伯父さんが静岡のゴルフ場を紹介してくれて、研修生として入ることができた。
有楽町で待ち合わせしたんですが、人通りの多いところだったので、キャディバッグを持って隅のほうで待っていた。そこにベンツに乗って来たんですが、普通は少しは探すじゃないですか。でも伯父さんは、いきなり大声で『茂!』と叫んで(笑)。
『努力は、他人の3倍も4倍もせなアカン。男は、仕事も酒も女も、全部1番にならないけん。飲め!』と、たくさん飲まされました(笑)」
唯一、現役時代で心残りがあるとすれば「3000本安打達成時だった」と、ベテランスポーツライターは語る。
「金田正一さんは、巨人で400勝を達成。王貞治さんの本塁打記録もそう。張本もそう願っていた。
だが、3000本安打は巨人を出され、ロッテで達成。巨人で達成できなかったことが、唯一の誤算だったのでしょう。当時から口は悪くて、誤解されやすかったのですが、後腐れのない性格でしたね」
それでも、通算最多の3085安打504本塁打319盗塁を達成しているのだから、記録にも記憶にも残る名選手であることは事実。いつまでも、忖度せずに「喝!」と叫びつづけてくれ!
(週刊FLASH 2019年11月12日号)