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亡くなった野村克也さん、本誌に語っていた「監督人生」

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.02.11 14:50 最終更新日:2020.02.11 15:03

亡くなった野村克也さん、本誌に語っていた「監督人生」

 

 2月11日、プロ野球で戦後初の三冠王に輝いた名キャッチャーの野村克也さんが死去した。84歳だった。

 

 奇しくもプロ野球元年(1935年)に誕生した野村さんは、選手として27年、監督として24年グラウンドに立ちつづけた。その間、獲得したタイトルは数知れず。

 

 

 誰よりも球界を熟知しており、本誌のインタビューには、常に球界の現状の危機を訴えていた。その理由として、「プロは専門家でなければいけない。だが、残念なことに専門家がいない。二流だらけ。それは選手はもちろん、監督も同様である」と話している。

 

 1970年、南海の選手兼任を皮切りに、ヤクルト、阪神、楽天と4球団で監督を務めた野村さん。本誌の取材にこう語っている。

 

「長いこと監督をやったけど、全知全能というか、すべてを振り絞ったのはヤクルトだけ。ほかはもうやる気なし! これは本当の話。監督を引き受けるにあたっては、自分の野球観、野球論、野球思想を球団としっかりすり合わせなければいけない。この部分で俺とヤクルトは合ってたし、球団も後押ししてくれた。

 

 たとえば、アリゾナ州でやった就任1年めの春季ユマキャンプ。周りに遊ぶところがないから1カ月、まさに24時間野球漬けで、野球を教え込むには最高の環境だった。

 

 キャンプでは監督の考えを教え、過去の反省をする。この時期がいちばん大切なんだよ。選手も真剣に取り組んでくれて、その後の好成績につながったことは間違いない」

 

 ヤクルトでは、かつての弱小球団を3度の日本一に導き名将の名をほしいままに。だが、次にチーム再建を託された阪神では3年連続の最下位とさんざんな結果に終わった。

 

「高知の安芸でキャンプをやったんだけど、ミーティングで話をしても、ちゃんと聞いているのは2、3人だけ。あとは、時計ばかり見ている(苦笑)。『そんな理屈はいいよ、早く終われよ』とばかりにね。

 

 また、キャンプ中にはOB会の連中が激励と称してやってくるんだけど、これが厄介だった。彼らは選手を連れ回す。大事なキャンプのときにね。で、阪神は人気球団だから街に出ればちやほやされるし、OB会の連中にはいいところに連れていってもらえるし。

 

 だからミーティングで時計ばかり気にしているんだよ。阪神は、こういうところから改革しないと絶対に強くならないと思った。人気と伝統に任せているだけだからね。でも、改革はできなかった。野球観も合わなかったし、ハッキリ言って阪神に行ったの、俺の野球人生で大失敗だったよ」

 

 つねに “弱小球団” ばかりを引き受けてきた野村さんにとって、長年の経験で培った名監督の条件とはなにか?

 

「古い話になるけど、V9時代の巨人・川上哲治監督にはすごみを感じた。ONを中心に、あれだけのメンバーが揃っていたら、誰が監督をやっても勝てるという人がいたけど、そうじゃない。チームの戦い方は徹底していたし、ミーティングも頻繁にやっていたみたいでね。

 

 同じ捕手ということで仲がよかった森祇晶に『どんなミーティングをやってるんだ?』と聞いたことがあるが、野球の話はいっさいしないということだった。大袈裟に言えば人間学や社会学の話だという。

 

 あの人は、オフに福井県の永平寺に座禅を組みに行っていたらしいけど、そういうことも力になっていたんじゃないかな。選手も無意識のうちに認めるわな。厳しさというか、修行に行っているわけだから。

 

 となると、選手も楽はできない。苦しいことは避けられない。自然とそうなるよ、チームは。でも阪神や楽天の選手はそうじゃなかった。改革まで持っていく余裕すらなかったよ」

 

 そんな野村さんは、野球人生の幕の下ろし方にこだわりがあったという。

 

「監督業の醍醐味、喜びというのは、それは優勝。胴上げは何度してもらってもいいもの。俺は野球場で死ぬのが理想だった。日本一になって、みんなに胴上げされ、それが終わったとき静かに息を引き取っていた、というね(笑)。これがいちばんいい死に方だと思っていたんだけどね」

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