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『虹プロ』J.Y.Parkのブレイク前夜「踊るマイク・タイソン」時代
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2020.08.20 06:00 最終更新日:2020.10.01 08:35
ボールペン片手に、硬い表情でダンスを見ていた男性が、うっとりとした表情で溜め息を漏らした。みるみる笑顔になった男性は、踊り終えた少女に直球の賛辞を贈る。「本当に魅了されました!」。すると緊張した表情の少女が、ようやく笑顔を見せるーー。
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Huluで配信中のオーディション番組『Nizi Project(虹プロ)』の一場面だ。男性は、「J.Y.Park」ことパク・ジニョン氏(48・以下、JYP)。いま、“アジア最高” といわれる音楽プロデューサーである。
そんなJYPが、「日韓共同プロジェクト」としてプロデュースする日本人9人組ガールズグループ「NiziU」が、大ブレイクしている。
「日本では情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)が、オーディションの経過を連日のように特集していたことも大きいですね」(K-POPに詳しいライター・坂本ゆかり氏)
同グループが6月末に発売したミニアルバムは、世界中の音楽配信サイトで「109冠」を達成。正式デビューの2020年11月を前に、もう10代の若者の間で爆発的人気なのだ。
「彼は両手の指を鳴らしながら、桑田佳祐率いるKUWATA BANDの『スキップ・ビート』の一節を歌い、『本当に世界的な水準だ』と、興奮気味に話していました」
そう語るのは、オペラ歌手の田月仙(チョンウォルソン)さんだ。月仙さんは、2010年にソウルのJYPエンターテインメント社に招かれ、JYPと3時間にわたり音楽談義を交わした。冒頭の写真は、そのときのスナップだ。
「ブラックミュージックにのめり込む少年時代を過ごしたJYPですが、『東洋人には難しい』と考えていたそうです。そんなとき勇気づけられたのが、桑田佳祐や久保田利伸の楽曲でした。
当時の韓国はJ-POPが規制されており、高校生だったJYPは、『海賊盤ショップでカセットテープを入手して聴いた』と語っていました」(月仙さん)
JYPは1992年に20歳でバンドデビューしたが、まったく売れなかった。振付師をしていたころ、のちに映画『猟奇的な彼女』の主題歌のヒットなどで知られる大作曲家、キム・ヒョンソク氏と知り合い、2年間住み込みで音楽理論を学んだ。そして1994年、ついにソロデビューを果たす。
「当時のJYPは今より強面で、雑誌などには “踊るマイク・タイソン” と書かれていました。でも、デビュー曲『俺から離れるな』は大ヒット。すぐに、“韓国のマイケル・ジャクソン” と呼ばれるようになりました」(月仙さん)
前出の坂本氏も証言する。
「ダンスはもちろん、スケスケのビニールパンツの下に黒ビキニという衣装も話題になりました。JYPには、ストーカーや尻フェチを歌った楽曲などもあるんですよ(笑)」
1997年に事務所を独立。プロデューサーとしてK-POPの大スター、godやピ(RAIN)らを育てた後、米国に拠点を移し、ウィル・スミスに楽曲を提供するなど成功を収めた。2007年には、米音楽誌「ビルボード」で、韓国人歌手として初の表紙を飾った。
2011年には、“野獣アイドル” として人気を得た2PMなど、所属アーティストが一堂に会する「JYP NATION」を、さいたまスーパーアリーナで開催。ガールズグループのTWICEも成功に導き、日本での地位を不動のものとした。月仙さんが逸話を明かす。
「彼は、20年前から日本進出を考えていたようです。私が会った2010年当時も、『(日韓で)同じアジア人として、音楽を通して一緒に歩んでいきたい』と力説していました」
韓国でJYPと会った、ある日本人音楽関係者も言う。
「彼はシャイなんですが、日本進出を夢見ていたころに会った際には、『ビルボード』誌に載った写真を見せてきたこともありました。『ぜひ、日本の人にも見てほしい』と。彼が日本に本格的に進出したのは、そのすぐ後でした」
そして今、JYPは、日韓の文化に見事な “虹” をかけている。
(週刊FLASH 2020年9月1日号)