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松村邦洋 たけしからは「衣装200着」…大御所に愛される理由
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2020.10.21 11:00 最終更新日:2020.10.21 11:00
東京・四谷三丁目の交差点近くにある「居酒屋 あぶさん」が開店したのは1986年。同名の漫画を描いた水島新司さん公認の店で、上原浩治・江川卓・石毛宏典などプロ野球の往年のスター選手や、松坂大輔投手など現役選手が同店を訪れたときの写真・サイン・ユニホームが、壁一面に飾られている、野球ファンの「聖地」である。
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松村邦洋は、上京後「あぶさん」で皿洗いをしていた。
「ここに、僕とイチローさんのツーショットも飾られています。このシーズン、イチローさんは200本安打を達成したんですよね」
そう嬉しそうに、セピア色の写真に見入った。
「(福岡の)大学入学後、素人参加番組に出演して、(ビート)たけしさんのものまねなどを披露していました。そのころから、『いつかお笑いの世界に行きたい』と思っていましたね。
テレビ西日本でアルバイトをしていたときのことです。片岡鶴太郎さんが、ゲストでお見えになったんです。バイトの先輩が気を利かせてくれて、『めったに会うことができないんだから、挨拶に行ってこいよ』と言ってくれたんです。
そして鶴太郎さんに、『どうも、たけしです』ってご挨拶したら、僕の出演番組を観てくださっていたようで『君、テレビに出ていなかった? ここで何をやってるの? 漁師さんなの?』と驚かれて。
なぜ漁師さんか? その日は大雨で、局に僕の体に合うサイズの雨ガッパがなかったので、ロケ地の漁師さんからお借りした大きな雨ガッパを着ていたんです」
鶴太郎は、「本気で芸人を目指すなら、東京においで」と太田プロダクションにかけ合ってくれた。松村は、大学を中退して上京。21歳だった。
「会社がアパートを用意してくれました。野球だったら、ドラフト1位指名の待遇(笑)。水洗トイレを見たときは、『本当に東京に出てきたんだなあ』と感無量になりましたねえ。
だけど仕事は、まだない。そうしたら『あぶさん』のマスターが、『まだ食べられないんだろ? お金はいらないから、ご飯くらい、いつでも食べにおいで』って、まかないを食べさせてくれたんです。お礼に、皿洗いのお手伝いをしました。
思い出に残っているまかないですか?『石井さんちのラーメン』ですね。石井は、マスターの名前です。よく考えるとインスタントラーメンなんですけど、味つけや具材も凝っていて美味しかった。
そうそう、中央大の学生だったジャイアンツの阿部慎之助さんが来たときは、阪神に入ってくれと頼んだんですけど……」
昔を懐かしむ松村。しかし当時は、不安だらけだった。
「素人のときは、『東京でやってやるぞ』なんて意気込んでいましたけど、実際に(太平)サブロー・シローさんの芸などを生で見てしまうと、プロの実力に足がすくみました。
そんな僕を見た鶴太郎さんに『おまえのものまねは、おもしろいんだから大丈夫だよ』って勇気づけてもらいました」
松村の人気を不動のものにしたのは、『進め!電波少年』(1992年7月〜1998年1月、日本テレビ系)だろう。
「土屋(敏男)プロデューサーは、僕のこともアッコ(松本明子)さんのことも知らなかったんです。初めての打ち合わせで『なんで、この2人なんだ?』っていう顔で見られ、僕たちも僕たちで『何をやればいいんだ?』って思っていました。
ロケはだんだん過酷になって、とくに海外ロケは悲惨でしたねえ。ロケ前、スタッフは合宿して筋トレ、ランニング。体を鍛えていました。でも、僕は何もせず、ぬるーい感じでやっていたわけです。そうしたら現地でバテバテ。大変な思いをしました。基本、ADを連れて行かないから、ディレクターの怒りも直で僕にくる(苦笑)。
アッコさんですか? 名前に『松』がつく人、たとえば松井秀喜さん、松本人志さん、松田聖子さん、松岡修造さん。素晴らしい方々です。さらに言えば松本明子さんは、『本』と『子』を取れば、まわりを明るく照らす『松明』です。余談ながら、マラソンの松野明美さんも、そうなるんですけど(苦笑)。
しかも、アッコさんは、人を先入観で見ない。困っている人を見ると助けずにはいられないんです。僕も事務所は違うのに、たくさんお仕事を紹介していただきました」