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見栄晴、萩本欽一から「芸がなくても芸能界で生きていける」“大将”の真意は?
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.01.30 20:00 最終更新日:2021.01.30 20:00
見栄晴(54)にとって「割烹 三松」は、4年前に89歳で亡くなった最愛の母との思い出が詰まった、特別な店である。
「僕が8歳のとき、父が心不全で急死しました。それから母と二人暮らし。母はお酒も飲める食堂を切り盛りし、昼夜の営業をしながら僕を育ててくれました。夕飯は、店のカウンターに座り、お酒を飲むお客さんに囲まれながら食べた思い出があります」
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息子との時間を作るため、母は土日に店を休みにした。
「だけど母は、パチンコに出かける(笑)。僕はそのあいだゲームセンターに行って、もらった小遣いの500円でインベーダーゲームをしていました。
母は、パチンコが強かったですねえ。よく、僕がファンだったピンク・レディーのレコードと交換してくれていました。だから、レコードは買ったことがなかった」
その帰り、三松で夕食をとることが親子の楽しみだった。見栄晴は、ホカホカのうな重を頬張った。
「母は晩年、寝たきりになりました。仕事の都合で、僕が母の面倒を見られないときは、母と同年代の三松のお母さんが世話をしてくれたんです。
母が亡くなる1週間前、母に『何か食べたいものはある?』と聞いたら、『三松のローストビーフ』と言うんです。車椅子に乗せて連れてきました。そう、座ったのは、まさにこの席です。それが、母との最後の食事になりました」
見栄晴は、感慨深そうに椅子を撫でた。
3歳のときに、児童劇団に入った。おとなしくて甘えん坊だった彼に、周囲が「習い事」としてすすめた。
「劇団は楽しかったです。小学生のころはTBSの『ケンちゃん』シリーズにも出させていただき、スタジオには電車を乗り継いで、ひとりで通いました。ちょっとした冒険です。そして中学生のとき、TBSの『1年B組新八先生』のオーディションに合格。半年間、出演させていただきました」
その後、見栄晴は萩本欽一と “運命の出会い” をする。劇団にギャラを受け取りに行った彼は、劇団の幹部から「似てるなあ、まだ間に合うかなあ」と顔をじっくり見られ、そのままテレビ朝日系の公開コメディ・ドラマ『欽ちゃんのどこまでやるの!』のオーディション会場に連れていかれた。
ちょうど、ドラマ内の家族の長男で、大人になった「見栄晴」役を演じる役者の最終オーディションがおこなわれていた。誕生当初の「見栄晴」は “人形” だったが、見栄晴は、その人形に似ていたというわけだ。
オーディションには、萩本も面接官として参加していた。じつは、合格者はすでに別の人物に決まっていたが、見栄晴に変更した理由について、のちに萩本はインタビューでこう語っている。
《高校生だった見栄晴にはまだ、なんにもなかった。オーディション参加者の中で一番ぼ~っとしていたのが見栄晴。そこが番組にマッチするんじゃないかと思った》
プロデューサーも、萩本と同じ考えだった。しかし、決定を覆すには理由がいる。そこで萩本が考えたのが、“合格者” とのジャンケンだった。
「『なぜジャンケンなんだ』と思いましたけど、そう言われたのでやりました。勝ったのは僕。あとになって、大将が『見栄晴が絶対に勝つから。もし負けても、見栄晴にしようよ』と言っていたと、周囲から聞きました(笑)。
このジャンケン、大将には『いずれ見栄晴がインタビューを受けるときの “つかみ” になるから』という配慮があったそうです。そのとおりになっていますね」
そして見栄晴は、高校生と欽ちゃんファミリーの二足のわらじを履いた。しかし、落とし穴が待っていた。
「父は、競馬場があるから府中に引っ越すほどのギャンブル好き。父との思い出は、自転車のうしろに乗せられ競馬場に行ったこと。その血を継いでいるのでしょう。
高校生の僕はコインゲームにハマり、小遣いが尽きて借金まで作ってしまった。それが母にバレ、母は僕の尻を金属バットで叩きながらも、肩代わりをしてくれました。だけど、その数年後にもギャンブルで借金、また尻ぬぐいをしてもらいました。本当に親不孝者です(苦笑)」