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肥後克広、所ジョージの言葉で気がラクに「遊んでいる君たちが見たい」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.04.10 06:00 最終更新日:2021.04.10 06:00
肥後克広(58)は「なんくるないさ」の人だ。いつも「なんとかなるさ」と楽天的に生きてきた。
「(1981年に)公立高校を卒業して地元の会社への就職を考えていたんですが、沖縄県内は就職難で仕事が見つからず、上京。いとこの家に転がり込みました。東京見物気分でした(苦笑)。
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デザイナー2人の小さなデザイン事務所になんとか就職。グラフィックデザイナーといえばカッコいいですけど、そこでは看板描きの仕事をしました」
半年後、周囲は「あと少しでボーナスがもらえるのにもったいない」と引き留めたが、肥後は「東京にいる意味がわからなくなっちゃった」と沖縄に帰ってしまう。
「わずか半年で沖縄の就職状況が劇的によくなっているわけでもなく、仕事はありませんでした。それで3カ月後に再び上京。
このときは『芸人になりたいなあ』と思っていました。具体的なプランはまったくありませんでしたけど『なんとかなるかな』と(笑)」
コント55号のファンだった肥後は萩本欽一の自宅に出向いて弟子入りを直訴。萩本は素人を番組に使ってスターに育てていた。肥後には「それなら俺も」と下心があった。
「そんな感じだから『修業させてほしい』という気持ちはさらさらありませんでした。すると萩本さんが『君は僕のところで弟子になってはダメだ。君はスターになれる。僕のところにいたら売れないよ』とおっしゃったんです。
体のいい断わりだったと思うんですけど、萩本さんの言葉に気をよくした僕は浅草に行きました。萩本さんのようにストリップ劇場の舞台に立とうと思ったんです。
その後で渋谷道頓堀劇場へ。人気上昇中のコント赤信号さんが幕間の舞台に立っていて、安心感があったんです」
もちろんツテはない。「なんくるないさ」だった。
「運よく見習いで潜り込めました。コメディアンの杉兵助師匠の身の回りの世話がメインで給料は微々たるものでしたが、生活はなんとかなりました。
食事は先輩がご馳走してくれるし、寝るのはいとこの家。そのうち『帰るのが面倒くさい』となり、芸人さんが練習するコント部屋で寝泊まりするようになりましたけど」
通行人役やボーイ役で舞台に立ったりしたが、次第に「この仕事もあまり意味がないのかな」と思うようになった。
「それからは『今日はヒマだから』という理由で舞台に立つ生活になりました。稼ぎは月に10万円ほど。お金がないことは気にならないんです」
どこまでもマイペースの肥後に幼少期のことを聞くと「生活はあまり楽ではなかったですね」と振り返る。肥後は8歳のときに父を亡くしている。母は20席くらいの食堂を経営しながら肥後を育てた。
「沖縄そばも出していました。晩ご飯のおかずはお客さんに出す料理。いつもチャンプルー(炒め物)でした。だから小さいころはチャンプルーを見るのも嫌で、コロッケや鶏の唐揚げが食べたかった。
だけどこの年齢になって、しかも東京にいると、沖縄の味がやたらと恋しくなります。だから沖縄料理屋さんにはよく行きます。抱瓶さんには30年以上前から通っています。
当時、高円寺周辺に友人が多く住んでいて、『沖縄出身なら沖縄料理でしょ』となって連れてこられたんです。
今でこそゴーヤチャンプルーはメジャーになってどこでも食べられますが、ナーベラーンブシーというヘチマの炒め物にはなかなか出
会えません。抱瓶さんにはそれがあるんです」
■即席で作ったグループが人気を得る
そして「なんくるないさ」の肥後に転機が訪れる。ダチョウ倶楽部の前身となる「キムチ倶楽部」の結成だ。
「渡辺正行さんが道玄坂のライブハウス『渋谷La.mama』でお笑いライブをしていて、新人も呼ばれていました。
『肥後ちゃんも出てみない?』って声をかけられていましたが、そのことをすっかり忘れていて、渡辺さんから『そろそろどう?』と言われても『なんのことだろう?』と記憶の片隅にも残っていなかったんです。
そしてついに出演することになり、当時は数十人いる劇団にいたので、慌てて片っぱしから声をかけて集まったのが上島竜兵、寺門ジモンたち。
ソウル五輪を控えて、これから韓国が盛り上がる予感があったのと、おニャン子クラブがブームだったのでパクらせていただき『キムチ倶楽部』を結成しました。これがダチョウ倶楽部の原型です」