「5月5日(の誕生日)で古希になっちゃった。70歳。新型コロナワクチンの接種券も届いたよ。気持ちは30代、40代だけど体のパーツはイカれてるなあ。60代で白内障の手術をしたんだけど、今はよく見えて風呂の汚れとか奥さんの寝顔が気になっちゃって」
【関連記事:モト冬樹に片岡鶴太郎…志村けんさんは「カツラで喜劇俳優に変身」】
創作広東料理で人気の「世田谷火龍園」に、「お邪魔するようになって20年になる」という。「どの料理もうまいけど、これは最高」と箸をつけたのは「大海老の特製マヨネーズソース和え」。揚げた海老のすり身とマヨネーズソースが絶妙なハーモニーを奏でる。
「親父は100歳で亡くなったんだけど、晩年にここで誕生会を開いてね。思い出がいろいろある店なんだよ」
■ベンチャーズに出会って医大受験に失敗
父親は開業医。モト冬樹は小学校から高校まで難関私立校で知られる暁星学園で学んだ。成績はトップクラス。
「一学年4クラスで俺は国立大学の理系を目指す進学クラス。だけど中学でベンチャーズの音楽に出会いギターに夢中になっちゃった。ギターがうまくなるのと反比例で学力は急降下。
高校では進学クラスから落っこちて下のクラスになっちゃった。そこで(グッチ)裕三と同じクラスになったの。裕三もブルー・コメッツのコピーバンドをやってたからすぐに仲よくなったね」
音楽にのめり込んだ2人はともに大学受験に失敗した。
「家が医者だから俺も慈恵医大を受験。だけどテストは30点以下。どうしようもないよね(笑)。裕三も暇だったからデュオを始めたわけ。『ヒデとロザンナ』をまねて『ヒデとブルンネン』。ふざけてるよね。だけど、オーディションにも受かったんだよ」
そのころ、モト冬樹の兄(エド山口)が「バンドをやらないか」と持ちかけてきた。
「俺と裕三は食いついたよ。バンドをやりたくてしかたなかったから。それでドラマーも入れて4人のバンドを組んだわけ。だけど数年後に兄貴が抜けて、裕三もほかのバンドで活動を始めてさ。
で、俺が旧知のウガンダ(・トラ)に『気楽なバンドやろうよ』って持ちかけ、そこにベースの島田与作さんが加わり、裕三も戻ってきてビジー・フォーが結成されたの」
1980年代後半、ビジー・フォーは清水アキラ、栗田貫一、コロッケらと「ものまね四天王」と称され、テレビのバラエティ番組を席巻した。
「音楽はできたけどルックスがよくないからコミックバンドしか選択肢がなかった。将来の目標も……そんなもん、ないない。『この先どうしようか』なんてまったく考えてなかったね。
バンドが好きで、やりたいからやっていた。ただそれだけ。だから取材で、『苦労話を聞かせてください』って言われても思い浮かばない。お金がないことも楽しかったんだよね」
モト冬樹は自身のそんな経験から「続けていればなんとかなるよ」と言う。しかし、続けていくことで小さな齟齬(そご)が生じることも知った。
「裕三とは目標が一緒だった。『テレビに出て有名になるぞ』ってね。だけど目標が達成されたとき、それぞれが目指している方向性の違いに気がつくんだね。同じネタの繰り返しで限界も感じていたからリセットすることにしたんだ」
解散したビジー・フォー再結成の可能性を聞くとモト冬樹は「ないなあ」とつぶやいた。
「コミックバンドの時代は終わったと思う。ビジー・フォー全盛のときは、ひとつのヒット曲をあらゆる世代が知っていたからパロディがみんなにウケた。
だけど安室(奈美恵)ちゃんのころから音楽が年代別になったから年代別にネタをやらなくちゃならない。それって、あらゆる世代が見ているテレビでは難しいよね。もうウガンダもいないしね。再結成、ないだろうなあ」