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磯野貴理子、脳梗塞でわかった自身の原点「あれだけ嫌だった “お笑い” を再び!」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.07.23 16:00 最終更新日:2021.07.23 16:00

磯野貴理子、脳梗塞でわかった自身の原点「あれだけ嫌だった “お笑い” を再び!」

東京・麻布十番「麻布永坂 更科本店」にて

 

「ここは本当に港みたいに、ふと立ち寄る場所。私にとっては、あると嬉しいというか、雰囲気含めてほっとするお店なんです。業界人の間では有名ですが、知らない方も多いだろうからぜひ紹介したかったんです」

 

 麻布十番にある「麻布永坂 更科本店」は、「20年以上前から通っている」という磯野貴理子の行きつけの店だ。

 

 

「蕎麦は軽くてもたれないので、仕事前とかはおせいろを頼みます。おすすめのカレー南ばんは、力をつけたいときや、仕事終わり『今日は頑張ったな』というときに食べることが多いです。お蕎麦屋さんのカレー南ばんでは、ここがいちばん美味しいと思います」

 

 バラエティ番組を中心に活躍している磯野だが、デビュー当時はアイドルとして活動していた。

 

「18歳から3年間、銀行で普通に働いていたんです。松田聖子さんに憧れてましたが、アイドルなんて夢のまた夢。自分がテレビに出られるとも思っていませんでした」

 

 転機は21歳のとき。東京で劇団のオーディションに合格し、劇団員の女性3人でアイドルグループ・チャイルズを結成した。

 

「アイドルは無理としても、舞台女優に憧れがあったんです。チャイルズ時代、私以外のメンバーはテレビに出る気満々で夢を語っていて『え、あなたたちテレビ出るの? 私は芸能活動できるだけで十分』とか思っていました。

 

 今となっては、すべて2人のメンバーのおかげですね。2人と一緒に頑張ったからこそ、テレビなどにも出させていただけたのだと思っています」

 

 アイドル活動を「流されるままだった」と振り返る磯野。それでも「お笑い」だけには強いこだわりがあった。

 

「CDを出したり、グラビア写真を撮っていただいたり、コンサートを開いたり、アイドルっぽいこともやらせていただいたのですが、常にネタを作ってコントもやっていました。根っこはあくまでコントグループだったので」

 

 チャイルズ解散後は、バラエティタレントとして活動を開始した。

 

「解散時期とか、はっきりしないままソロで活動を始めてるんですよ。私の場合、本当にすべて流れにまかせてやってきた感じなんです」

 

■「人の会話は、自分の会話」精神で爪痕を

 

 当初はレポーターの仕事がメインだった。

 

「『街角レポート』みたいなコーナーがどの番組にもあったんです。グルメからサラリーマンのグチまで、なんでもレポートしました。

 

 お店の紹介、新橋の酔っ払いのおじさんにインタビュー、渋谷のスクランブル交差点で街頭インタビュー、ほぼ毎日のようにやってましたね。酔っ払いの人も多かったですし、とにかく話を聞くのも大変。

 

 ディレクターさんが『あの人に取材しましょう』と声をかける人を選ぶのですが、やっているうちにインタビューに答えてくれる人とか、テレビ向けのおもしろいコメントをしてくれそうな人を自分で見分けられるようになってきたんです。

 

 そういう人に率先して自分から声をかけるようになると、レポーターの仕事が楽しくなっていきました」

 

 おもしろい人を見分け、積極的に絡む能力は、バラエティ番組でも発揮された。

 

「当時は『爪痕を残す』なんて言葉さえなかったのですが、『おもしろい話をして笑わせよう』と一生懸命。『人の会話は、私の会話』ぐらいの気持ちで、収録に臨んでました」

 

『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)の司会を務めていた島田紳助さんは、ひな壇で場の空気を変えることも厭わず、とにかく前に出る磯野のトークや芸風を「キリコる」と命名した。

 

「島田紳助さんには本当に感謝しています。『行列』であれだけいじっていただき、自分の名前を全国の皆さんに知っていただけました。当時はまったくわからなかったのですが、いま振り返ると、流されるままでしたが、チャンスはいっぱい転がっていましたね」

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