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名曲散歩/森昌子『哀しみ本線日本海』少女を大人の女性に変貌させた曲
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.09.12 16:00 最終更新日:2021.09.12 16:00
東京・神田の古いビルの2階。そこには夜な夜な紳士淑女が集まり、うんちくを披露しあう歌謡曲バーがあるという。今宵も有線から、あの名曲が流れてきた。
お客さん:お、このイントロは森昌子の『哀しみ本線日本海』。新潟あたりの荒涼とした冬の海の光景が目に浮かぶよ。
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マスター:1981年リリース、森昌子が紅白で初めてトリを取ったのが、この『哀しみ本線日本海』。当時23歳だった。
お客さん:若いねえ!
マスター:デビューが早かったからね。1971年、『スター誕生』(日本テレビ系)の初代グランドチャンピオンになったのが13歳のとき。翌年、14歳で『せんせい』を歌ってデビュー。
お客さん:モンチッチ頭にミニスカートがまぶしかった。
マスター:森昌子は当時、数々の最年少記録をマークした。1973年の『紅白歌合戦』には最年少15歳で出場。1979年には新宿コマ劇場で史上最年少座長にもなった。
お客さん:まさに天才少女!
マスター:実は『哀しみ本線日本海』は、それまでの森昌子のイメージを覆す演歌だった。作曲は浜圭介だ。
お客さん:『そして、神戸』(内山田洋とクールファイブ)、『石狩挽歌』(北原ミレイ)、『街の灯り』(堺正章)、『舟唄』『雨の慕情』(ともに八代亜紀)などのヒットメーカーだ。
マスター:そんな浜のもとに、森昌子の音楽ディレクターから「大人の歌を歌わせたい」という依頼があった。
お客さん:アイドルからの脱却を狙っていたわけだ。
マスター:少女のイメージが強すぎたからね。浜はそのとき、「3曲書かせてくれるなら何とかする」と提案。そして『北寒港』『哀しみ本線日本海』『立待岬』を提供した。
お客さん:『哀しみ本線日本海』の作詞は荒木とよひさだったね。
マスター:六本木の喫茶店で荒木と森はいろいろ話し合い、そのとき感じたことを歌詞に落とし込んでいった。
マスター:歌詞を受け取った浜は、歌謡曲ではない、フォークの匂いを感じ、瞬間的にメロディーが浮かんだという。
お客さん:そして森昌子は少女から大人の女性へと見事に変貌を遂げた。
マスター:『哀しみ本線日本海』以降、“恋する女” をテーマにした楽曲に移っていき、本人の意識も、世間の印象もがらりと変わった。
お客さん:日本を代表する歌手・森昌子が、一皮むける大きな節目だったのか。
おっ、次の曲は……。
文/安野智彦
『グッド!モーニング』(テレビ朝日系)などを担当する放送作家。神田で「80年代酒場 部室」を開業中
参考:森昌子『それはじんせい…』(主婦と生活社)/馬飼野元宏『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(シンコーミュージック)/BSテレ東『武田鉄矢の昭和は輝いていた』(2021年9月3日)