「命日でも何もしません。毎朝、神棚に向かって『一日の糧をありがとうございます』と感謝し、日々暮らしていくだけです。夫もそれでいいと言ってくれると思います」
11月28日、菅原文太没後7年のその日も、文子夫人はいつもどおり農園に出た。
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文太が山梨県北杜市に「おひさまファーム竜土自然農園」を開いたのは2009年。文子さんは無農薬有機農業という夫の遺志を今も継いでいる。
菅原文太は1933年8月、宮城県仙台市の農村に生まれた。
「夫が育った地域では、子供も農作業を手伝いました。牛や豚の世話から、重い荷車を引いたり。車輪に足を挟まれて怪我をしたときの傷痕がずっと残っていました。夫の原点は、農村で過ごした貧しい少年時代にあると思います」
端役から始めた俳優業は1973年、39歳で出演した『仁義なき戦い』シリーズのヒットで開花。大スターとなったが、最愛の息子を亡くす不幸に遭い、ついに辿り着いたのが少年時代に体に染みついた農業だった。
次第に脱原発や米軍普天間基地の辺野古移設反対運動など、政治活動にも力を注ぐようになる。そして2014年11月、転移性肝がんにより81歳の生涯を閉じる。
今回、文子さんは自宅倉庫から多くの写真や遺品を探し出してくれた。なかには憂国の言葉が綴られたメモもあった。
〈盛り場を毎日のように現代のユニクロ風俗に身をかためて、うろついている若者達。アリの群れのように。(アリはまだ働いているから)一体、何処から湧き出て来るのか何をして食べているのか〉
文太はいつも筆ペンを携帯し、気づいた世の中への疑問を書き記したという。
「昭和は貧しい代わりに、自由と解放感に溢れていました。今の日本では大人の表情は暗く、若者はただ享楽的になっているように見えます。夫は、そうした日本の行く末を案じていたのだと思います」
華やかな世界から畑に戻った文太は今こう言うだろう。
「日本人よ、土にまみれよ!」
※文中一部敬称略