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山中崇、仲野太賀ら若手の演技に打ちのめされる「悔しがる自分は『もっと伸びたい』証し」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.04.24 11:00 最終更新日:2022.04.24 11:01
「世代かもしれませんが、もんじゃ焼きを駄菓子屋さんで食べた経験がありません。家でお好み焼きを食べたあとに母が作ってくれるものでした。それも具なしでした」
山中崇は「海鮮カレーもんじゃ」を鉄板に流し込み、ヘラで具材を混ぜ合わせた。このあとは “土手” を作って……となるはずが「あれ、これでいいんでしたっけ?」と、ヘラの動きが途端にぎこちなくなった。見かねた女将さんが手助けして完成。
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「うんめえ! やっぱりお店の方に作っていただくのがいちばんですね」と山中は嬉しそうに口に運んだ。
「こちらのお店は以前、渋谷の円山町にありました。置屋さんを居抜きしたお店で、30歳のとき、監督さんやプロデューサーさんに連れてきていただきました。
風情がある雰囲気に魅了されて、一人でもお邪魔するようになってから15年もたつんですね。44歳。もう『若手だから』という逃げができない年齢です」
山中に「役者の原点」を聞くと「高校時代の修学旅行」という答えが返ってきた。
「僕の高校では修学旅行が『ホームルーム合宿』と呼ばれ、沖縄県で戦争のことを勉強することになっていました。旅行の前に文化祭で沖縄について学んだことを劇で演じることになりました。
僕は人前に出ることが苦手だったので裏方を希望したんですけど、その劇は脇役の精霊・キジムナー役だけで8人もいました。登場人物が多すぎて半ば強制的に出演させられました。そのときの役は、もちろんキジムナーです(笑)」
上演後、周囲の反応は山中の予想外だった。
「小学2年生から中学1年生まで剣道をやっていたので声は大きかったんです。会場だった体育館の後ろまで届きました。それを友人にほめられ、女子生徒も僕をチラチラと見ているように感じて『もしかしたらモテてる?』と思ってしまったんです。勘違いだったんでしょうけど」
このときの経験は、山中の心の中に「みんなでひとつのものを作り上げる」という充実感、達成感を強烈に残した。そして役者を目指すきっかけになった。
大学進学後、演劇サークルに入り、芝居にのめり込んだ。他大学のサークル・劇団にも積極的に参加して年6回も舞台を踏んだ。
「実家から通っていたのでアルバイトは必要最低限ですんだことにも助けられました。先輩からは『お前、そんなに出演してどうすんの? やりゃいいってもんじゃないよ』と呆れられました。だけど、僕は『やればやるほど、いいもんなんじゃないの』と思っていました。
舞台に出るという経験を重ねることが、そのときの僕には必要なことでした」
卒業後は小劇団で活動した。だが、それだけではなかなか生活できなかった。映画やテレビの仕事も入らない。生活のため、夜中にディズニーランドがある舞浜の倉庫で荷さばきのアルバイトをした。
爆音で「プッチモニ」の曲がループして流れるなか、受け取った荷物を出荷場まで運ぶだけの単純作業。これを毎晩夜明けまで繰り返した。 “明日” がみえない。酒を飲むと友人に「役者に向いていないのかな」と愚痴った。
「だけど『やめて、何をするの?』って聞かれると役者以外にやりたいことが思い浮かばない。だから『そうだよね。役者しかないよね』となりました」