エンタメ・アイドル
宮崎美子 水着披露を「痛いおばさんと言われないか心配だった」と語るも、「年齢は忘れるようにしている」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.06.05 11:00 最終更新日:2022.06.05 11:00
神奈川県三崎漁港。路地を入ったところに、サビが浮くトタン板に素朴な字で「朝めし あるべ」と書かれた定食屋がある。宮崎美子は「こちらで美味しい朝食をいただくと一日頑張れます」と笑顔で暖簾をくぐった。
「NHKのドラマ『カナカナ』の撮影を三崎でおこなっているんです。泊まるときもあるので、朝ごはんを食べられるお店を探していたら、地元の方がこちらを教えてくださいました」
【関連記事:宮崎美子「61歳ビキニ」に称賛の声…美容法はラジオ体操とスクワット】
テーブル席に着いた宮崎が注文したのは「あじのひもの定食」。「あじの干物しか作らない」という地元の干物屋から仕入れる逸品だ。ほかにも地元産の野菜を使った副菜がつく。ご飯はガスで炊いた五分づき米だ。
「見て見て。ほら、すごくふっくらしてるでしょ」
子供のようにはしゃぎながら、あじの身をほぐすそのピュアな表情は、ミノルタのCMが流れたときのままだ。
宮崎は熊本大学法学部3年のとき、「週刊朝日」の表紙モデルになった。撮影は篠山紀信。雑誌の発売後、篠山を通じてミノルタからCM出演の依頼があった。しかし、宮崎は断わろうと思ったという。
「週刊朝日さんの撮影も、当時は大卒女子の就職が難しかったので『掲載されれば少しは(就職活動で)有利になるかな』という程度の考えで応募しました。母は『プロの方に撮っていただければお見合い写真になるしね』と言ってたくらい。だからCMなんて考えてもいませんでした。
でも、お話をいただいた時期が後期の試験直後。すぐに春休みに入ったこともあり『撮影はサイパン? 海外に連れて行ってもらえるの?』と舞い上がってしまったんです。撮影はすごく楽しかったです」
CMは糸井重里が作詞を担当したサマーソング『いまのキミはピカピカに光って』とともに放送された。はにかみながらジーンズを脱ぐ姿はたちまち話題になった。だが……。
「サイパンなので水着になるのは自然で当たり前ですが、その姿がお茶の間に流れると少し違う印象に見えてしまうのではないか、と心配になりました」
好奇の対象になってはいないだろうか。「困ったな」というのが正直な思いだった。やがてCMの反響は想像を超える社会現象になり、日本全国の男子学生たちは下敷きに宮崎の写真の切り抜きをはさんだ。周囲はどんな反応だったのだろう。
「幸いといいますか、熊本は地方だったんでしょうね。CMがあまり流れていなくて。友人も何も言いませんから今までどおりの生活でした」
東京での盛り上がりをよそに宮崎は予定どおり就職活動を始めた。ジャーナリストを目指し、地元テレビ局への就職を考えていたが、そこへドラマ『元気です!』(1980年、TBS)の出演依頼がきた。
「そんな(俳優は)できるわけがないとお断わりしましたが、局の偉い方が熊本まで何度も足を運んでくださって。新人を育てることで知られるドラマシリーズでもあったのでお受けしました。
初めての一人暮らしは、着替えなど身のまわりのものだけを持って上京。ベッドは大道具さんが撮影で使ったものを貸してくださいました」
その後も間をおかずにドラマ出演が続いた。俳優業に楽しさや手応えを感じたのだろうか。
「逆でした。『元気です!』では何もできなかったので挫折したんです。それで『ドラマを “経験しただけ” で終わるのは嫌。ちゃんとお仕事をしよう』と決意しました。芸能界のお仕事はお芝居、歌、バラエティなど間口が広いので、私としては『総合商社』に就職した気持ちでした」
1981年、宮崎は人気番組『クイズダービー』(1976年~1992年、TBS)で長山藍子からバトンを受け継ぎ、レギュラー解答者になった。驚異的な正答率で注目され、その後クイズ番組の常連になる。
「昔からクイズは好きでした。大学生のときに『アップダウンクイズ』(1963~1985年、MBS)の全国都道府県代表大学生の回に出場したこともあります。でも早押しが苦手だったので中途半端な成績。ハワイには行けませんでした(笑)」
テレビ番組ではのちに漢字能力検定一級に挑戦し、2回目で合格した。
「我ながら頑張りました。試験では簡単な漢字がわからなくなっちゃうんですよね。『あれ? 点があったかな、なかったかな』とか。ときどき、『挨拶』が書けるかどうかをセルフチェックしています。中学の漢字練習帳の最初の漢字がこれで、今もなんとなく『これが書ければ安心』みたいなところがあるんです。そうそう、漢検一級に合格したとき小学生の女の子から『私も漢字博士になりたいです』というお手紙をいただきました。あれは嬉しかったな」