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風間杜夫、72歳で2カ月に1本舞台生活の現在…「役者として人前に立つのが好き」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.08.14 11:00 最終更新日:2022.08.14 11:03
「ここのゆでたんの厚さと柔らかさはすごいんですよ。本当に美味しい。ただ、ものすごい人気店だから予約しないと入れない。予約でいっぱいのときは、僕も外で並んで待つときもありますよ」
ハイボール片手にそう話すのは風間杜夫。厚さが1cmはあるゆでたんを口に運ぶと、顔がほころぶ。
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「塩コショウで味つけしてあるゆでたんを、わさびでいただくっていうのがまたいいのよ。ゆでたんから入って、たん焼き、どて煮まで一通り食べます。最近はなかなか来られないこともあって通販で頼んでね。昨日はどて煮を食べましたよ」と満足げだ。
風間が四谷にある「たん焼 忍」に通うようになったのは36年ほど前。今では家族ぐるみのつき合いだ。
「うちの小さな別荘に遊びに来るとカーテンまで洗ってくれる。(『たん焼 忍』の)ママは働き者なんです」
幼いころの風間は、何かあると母親の後ろにすぐ隠れてしまうような子供だった。
「幼稚園の学芸会ではつらつと演技をしている姿を見た母親が、性格も前向きになるのではと、児童劇団をすすめてくれて。今思えばあのころから演じることが好きだったんです」
その後、東映児童研修所に一期生として入所すると、人気子役に。仕事は忙しく、時代劇に出ていた小学校5年生のときは、母親と京都の太秦撮影所近くの旅館で暮らし、ほとんど学校に通えなかった。
「台本を読んで漢字を覚えるし、読解力が身につくから、国語や社会は優秀だったんですよ。ませてましたね(笑)」
普通の学校生活を送ったほうがいいという意見もあり、中学1年の夏で児童研修所を退所。だが、風間の中ではこのときすでに、「将来は役者になると決めていた」。
中学から玉川学園へ進み、高等部では演劇部に入部する。当時、大学の演劇部には西岡德馬がいた。
「全共闘運動が高校生にも波及していて、玉川学園は非常に自由な校風でよかったんですが、穏やかなキャンパスから飛び出してみたくなったんです。行くなら早稲田(大学)と決めていたので、一浪して早稲田に進みました。入学したら『自由舞台』というサークルに入ろうと決めていたので、すぐ入部しました」
当時は第二次早稲田闘争の真っ只中。風間も学生運動に飛び込んだ。
「サークルに入った初日から、昼間は芝居の稽古をして、夕方からはヘルメットを被ってデモに行きました。グズグズしていたらパクられまして、向島警察の留置場に2泊しました。活動家は黙秘しますが、私はノンポリなのでペラペラしゃべって出てきちゃった」
その後は、大学にはほとんど通わず演劇に明け暮れた。そして、22歳のときに大竹まこと、斉木しげる、きたろうと劇団「表現劇場」を立ち上げた。時代は第一次アングラブーム。唐十郎の「状況劇場」、寺山修司さんの「天井桟敷」、柄本明が「東京乾電池」を立ち上げて……と、血気盛んだった。そんななか、劇作家・つかこうへいさんと出会う。
「芝居の質感がそれまでのアングラとはまったく違う、都会的なセンスの芝居なんです。笑える、センスに富んだ芝居でとにかくおもしろかった。このグワッときた波に、僕と平田(満)で乗っかったんです。厳しく叱られながら、つかさんの劇団に7年ほどいました」