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「逆説の日本史」井沢元彦氏が注目する『どうする家康』の“新説”頼りない「健康オタク」の一面も

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.01.01 06:00 最終更新日:2023.01.01 06:19

「逆説の日本史」井沢元彦氏が注目する『どうする家康』の“新説”頼りない「健康オタク」の一面も

歴史家・井沢元彦氏

 

 江戸幕府を開いた男は、半ベソになりながら乱世を必死でサバイブした頼りないプリンスだった、という新しい解釈で描く、古沢良太脚本の大河ドラマ『どうする家康』。この新しい徳川家康像について、歴史家・井沢元彦氏に聞いた。

 

■「史実の家康は健康オタクで、母性を求めた大の “熟女” 好き」

 

「家康は信長、秀吉に比べると、いわゆる “天才” ではなかったと思いますが、学習能力はものすごく高かった。それは同じ失敗を繰り返さないことからもわかります。戦の負けから最も多くのことを学び、成功の材料を見つけた歴史上の人物ではないでしょうか。戦略をコンピュータのように計算して立案していたと思います」

 

 

 そして「恥ずべきことも残して教訓にした」という。

 

「三方ヶ原の戦いで大敗した家康は敗走するとき脱糞したといわれ、そのときの表情の絵が残っています。一説には後世の人間が描いた虚構だともいわれていますが、東照大権現という神様になった家康にそれはあまり考えられません。家康本人が戒めもこめて描かせて『残すべき』としたのでしょう」

 

 そんな家康の「素顔」はどうだったのだろう。

 

「今川義元に見込まれ、重臣の娘・瀬名と結ばれます。正室の築山殿です。桶狭間の戦いで今川方は負け、その後家康が信長と同盟したため、瀬名の両親も自害に追い込まれました。このとき家康は今川方から裏切り者のそしりを受けます。そのため家康を見下していた瀬名も『あなたのせいで見殺しにされた』と思ったのでしょう。

 

 じつは家康、身分の高いインテリ女性が嫌いでした。築山殿の死後、秀吉の妹・朝日姫を半ば押しつけられて正室に迎えますが、亡くなってから正室は持ちません。

 

 しかし女嫌いではないので床をともにする女性はいました。これらの女性には経産婦が多かったのです。今でいう熟女。子供を産んだ女性なら世継ぎを産めるだろうという理由もありましたが、家康は幼いころに母親を亡くしているので母性を求めたのでしょう。お姫様の築山殿とは正反対のタイプでした。それでも60歳ごろから若い女性を好むようになり、子作りに励んだといわれます。遊女には手を出しませんでした。当時、梅毒が流行していたからです」

 

 老年になっても元気ハツラツだった家康。そこに「健康オタク」の秘密がある。

 

「あの時代は『末長く健康でいるためには、家の中でじっとしてなるべく動かないことが大切』という考え方でした。しかし家康の趣味は『鷹狩り』。野山を歩きまわりました。作家の司馬遼太郎氏は『スポーツが体にいいと悟った、初めての日本人ではないか』と述べています。さらに獲物のウサギなどを食べるので動物性タンパク質も摂れていました。ほかにも東海地方の名物『浜納豆』や『豆味噌』などタンパク質が豊富な発酵食品を好んで食べていました」

 

 だが、肖像画で見る家康は太って恰幅もいい。

 

「晩年はストレスもあり、食べすぎていたようです。自分でふんどしが締められなくなったともいわれます。数え75歳で生涯を閉じますが、現代なら90歳以上に値する長寿です」

 

 そんな家康を井沢氏は「幸運を努力でつかんだ」と表現する。その幸運とは?

 

「ひとつは桶狭間の戦いでしょう。今川方が勝てば家康は『今川家のいい家来』のままで終わったはずですが、義元が亡くなったことで独立大名になりました。それと本能寺の変。信長が天下統一をしたら、当然ですが家康が天下人になることはなかった。我慢を続けた結果の天下人でしょう」

 

いざわもとひこ
1954年生まれ 愛知県出身 早稲田大学法学部卒 TBS入社後、報道局(政治部)記者時代に『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞。おもな著書に『言霊』『穢れと茶碗』『逆説の日本史』(明治終焉編まで既刊27巻)など。YouTubeで「井沢元彦の逆説チャンネル」を配信中

 

写真・福田ヨシツグ

( 週刊FLASH 2023年1月3・10・17日合併号 )

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