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中村芝翫が語る歌舞伎、結婚、そしてこれから…「失敗した理由を考え、自分で治すことが成長に」

エンタメ・アイドル 投稿日:2023.04.02 11:00FLASH編集部

中村芝翫が語る歌舞伎、結婚、そしてこれから…「失敗した理由を考え、自分で治すことが成長に」

中村芝翫

 

 広尾商店街の奥まった場所にある「ビストロ ガストロス」。群馬県産赤城牛を90日間熟成させた、黒毛和牛の熟成肉独特の味わいに多くの食通がうなり、足を運んでいる。

 

 この日、八代目中村芝翫は「和牛のうま味がギュッと詰まっていてとにかく美味しいんです」と「熟成黒毛和牛100%ハンバーグ」を注文した。

 

 つなぎを極力少なくして調理したハンバーグは、和牛がメニュー名どおり100%楽しめる。噛むたびにあふれる肉汁、粗挽き肉の弾力もダイレクトに伝わってくる。

 

 

「いかがですか? 美味しいでしょう」

 

 してやったりといった表情を浮かべる芝翫が初めて来店したのは4年前のことだった。

 

「2015年の『八月納涼歌舞伎』のパンフレットに朝倉隆文先生が描いた青い龍がありました。龍が好きな私は、翌年に控えた芝翫襲名披露公演の口上舞台はぜひ朝倉先生に描いていただきたいと熱望して実現いたしました。そのご縁で先生がお好きなこちらにご一緒させていただいたのが最初でございます。今では橋之助、福之助、歌之助の3人もお世話になっているようです」

 

 1965年、七代目中村芝翫の次男として生まれた。初舞台は4歳。父の「試しに舞台に出してみたら」のひと言で決まった。

 

「そのころにはちょくちょく歌舞伎座に連れていかれたので歌舞伎の世界はとても身近でした。日本酒の熱燗で晩酌をしている父から3時間でも4時間でも芝居の話を聞くことが楽しかったですし。

 

 その年ごろは仮面ライダーやウルトラマンがヒーローですけど、私にとってのヒーローは尾上松緑が演じる『勧進帳』の弁慶でした(笑)」

 

 青山学院初等部に入学した芝翫は、母親が担任の先生に「読み書きができなくて心配です」と相談するほど稽古に打ち込んだ。3時限めの授業が終わると早退して、地下鉄で歌舞伎座に向かい舞台に立つことも多かった。つらくはなかった。むしろ日に日に演じることが好きになっていた。

 

「今ではDVDを見て振付を覚えることができますが、当時は舞台の袖で諸先輩の踊りを見て覚えました。台詞もカセットテープに録音して、それを自分で書き出して暗記する。そんなことも楽しかったです。14歳のとき、橋之助を襲名したことで『もっと舞台に立ちたい』と思うようになりました。

 

 青山学院中等部の卒業を控え、六代目中村歌右衛門のおじさんから『学校に行ったって、おまんまなんか食わせてくれないんだから』と言われたこともあり、高校進学をせず歌舞伎役者に専念することにしました」

 

 芝翫は「すぐにいい役をいただける」と思っていた。しかし、父は厳しかった。

 

「父には『段階を追って順々に役を務めて芝居を覚える』という信念がありました。

 

 しかし私は今すぐ大きな役を演じたかった。あまりにそのことを言うので、母から役と薬を引っかけて『役物中毒じゃないんだから』と苦笑されたりしました」

 

 不完全燃焼の状態だった芝翫を支えてくれたのが、19歳上の初代尾上辰之助だった。

 

「兄さんは『お前たちは海外に出たり、自分でプロデュースや演出をするようになる。だから世の中のことを知っていなければダメだよ』と経済新聞などを読むようにすすめてくれました。

 

 その大切さに気づかされたひとつが1997年に主役をさせていただいたNHK大河ドラマ『毛利元就』です。大河ドラマは時々の政治や経済事情も取り込まれます。名だたる演出家さんやプロデューサーさんと渡り合えたのもこの教えのおかげです。兄さんがいなかったら芝翫を襲名できていなかったと思います。あまりにも早く亡くなり残念です」

 

 テレビドラマや映画など歌舞伎以外の表現にも挑戦した。多くは『水戸黄門』(TBS)、『鬼平犯科帳』(フジテレビ)など時代劇だが『ダウンタウンヒーローズ』(1988年)のような現代映画にも出演した。

 

「当時はまだ若手の歌舞伎役者がテレビに出るのはご法度みたいなところもあり、先輩からは『テレビばかりに出て』と小言も言われました。

 

 しかし多くの方に『中村橋之助』の名前を知っていただかなければいい役もいただけませんし、お客様が舞台を観に足をお運びくださいません」

 

 ドラマの演技は戸惑いもあった。あるインタビューで「井戸で手を洗うシーンがありました。歌舞伎なら水がないところをあるように見せます。テレビは実際に水がある。このリアルな芝居がなかなかできなかった」と述懐している。

 

 1991年に三田寛子結婚。この縁も映画だった。『ダウンタウンヒーローズ』でメガホンを取った山田洋次監督が『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』(1988年)を撮影していた。山田監督から「撮影所に遊びにおいで」と言われた芝翫は同作に出演していた三田と意気投合。翌年に映画『開港風雲録 YOUNG JAPAN』で兄妹役を演じてからはお互いの意志が固まった。

 

「『梨園の妻は大変だ』と言われますが、確かに後援会の皆様とのおつき合いや弟子の面倒など多忙です。襲名公演ともなれば一大事業。妻は京都出身で日舞も習っておりましたので一般の方よりは歌舞伎界のことを知っていたと思います。梨園に入る不安などの相談を受けたことはありませんでした。

 

 結婚で思い出しました……。

 

 昔、甥っ子の勘九郎や七之助に『テレビで梨園の奥さんは大変だと言わないでよ。僕たち結婚できなくなっちゃう』と怒られました(笑)」

 

 大好きな酒もすすみ、話題は50年を超えた芸歴のことになった。かつて尾上辰之助、義兄の十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎などに引っ張られて次々と斬新な演目を経験してきた。これからは若手に「背中」を見せていかなければならない。

 

「コロナ禍の影響もあり若手が企画演出する舞台が少なくなっています。今こそ、私たち世代が若手の力にならなければいけないと思っています。

 

 歌舞伎界というのは独特で、師弟でありながら親子や兄弟など関係が密です。そのため傷(失敗)を負うとそれを舐め合ってしまう。経験からなぜ傷を負ったかわかりますし、治し方も知っていますから。それがいいときもありますが、結局は自分で治すことが第一です。考えることが役者として成長することと信じています。息子たちも今夏に初めての自主公演『神谷町小歌舞伎』(6月30日~浅草公会堂)を予定しております。いろいろ大変なようで、親としては傷を舐めたくなります」

 

 見守る難しさ、距離の取り方に悩む芝翫。最後に「大名跡を継ぐこと」について聞いた。

 

「『芝翫』はお預かりしているだけだと思っています。この名前を大事に守りながら、どういう芝翫にするのか。評価はお客様にしていただくのですが、いずれ九代目は息子の誰かが継ぐことになると思います。そのときに少しでも重圧に感じてもらえるようにしていかないといけませんね」

 

「成駒屋!」

 

 客席からの掛け声も戻り始めている。

 

なかむらしかん
1965年8月31日生まれ 本名・中村幸二 1970年に国立劇場『柳影澤蛍火』吉松君で初舞台。1980年、歌舞伎座『沓手鳥孤城落月』裸武者銀八ほかで三代目中村橋之助を襲名。立役として時代物、世話物、新歌舞伎、舞踏など幅広い分野で当たり役を持つ。テレビ、映画にも出演し1997年にNHK大河ドラマ『毛利元就』では主演の毛利元就役を務める。2011年、日本芸術院賞を受賞

 

【ビストロ ガストロス】
住所/東京都渋谷区広尾5-1-20 七星舎ビルB1
営業時間/ランチ11:30~15:00(L.O.14:30)、ディナー17:00~23:00(L.O.22:00)
定休日/月曜

 

写真・野澤亘伸

( 週刊FLASH 2023年4月11日号 )

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