JR逗子駅前の「逗子銀座通り」を通り抜け、海風を感じながら、飯田基祐と待ち合わせた「ファンキーママ」のドアを開いた。シングルモルトウイスキーとオーナーママの手作り料理が楽しめるバーの店内は、アンティークのジュークボックスから10ccのヒット曲『アイム・ノット・イン・ラヴ』が流れていた。
「10年前までお店は池袋にありました。かれこれ30年前のことですが、所属していた劇団が東京芸術劇場で公演をすることになりました。だけど資金がおぼつかない。そこで劇場周辺のお店をまわり、『パンフレットにお店の情報を載せますので協賛金をよろしくお願いします』と飛び込み営業をしたんです。『ファンキーママ』さんはそのお店のひとつで、それからは毎回の公演でお世話になっていました」
【関連記事:前野朋哉、バイプレイヤーにして映画監督「僕、やっぱり映画が好きなんです」】
横で話を聞いていたママは「若い人たちが一生懸命だったから、応援したくなっちゃったのよ」と目を細める。
「モヒート」を美味しそうに飲む飯田に「なぜ俳優を目指したのか」を聞くと、「大学生時代は演劇を観に行くこともなかったんですけどね」とつぶやいた。
「一般企業に就職するという考えはなかったんです。朝、満員電車に乗って同じ会社に出勤する自分のイメージが湧かなくて、それですごく甘い考えだったんですけど『俳優なら、できるかな』と思い、『よし、就職先は俳優だ。これを生業にしよう』となったんです。本当に甘い奴でした」
雑誌「ぴあ」に掲載されていた「オーディションに受かれば映画に出演できます」という広告を見て演劇研究所の門を叩いた。
あるとき、研究所の講師から「役者が足りなくて困っている劇団があるから手伝いに行ってくれないか」と頼まれた。そこで脚本家の樫田正剛氏と出会い、1996年に樫田氏を中心に旗揚げされた「劇団方南ぐみ」の創立メンバーに。
「すべてがゼロからのスタートでしたから楽しかったです。生活は、大変でしたけど(笑)。
バイトもいろいろやりました。長かったのは競輪場でのバイトです。レース中に接触して落車した選手を自転車ごと抱えてコース外に運ぶ仕事です。レースの合間にセリフを覚えられるし、公演で休まなくてはならないときも、劇団仲間に代わってもらえたりするのでいいバイトでした」
住んでいたアパートは世田谷の芦花公園近く。家賃は2万5000円、木造モルタル2階建てだった。
「全部で4部屋ありましたが、僕の部屋はトイレのすぐ横。しかも水洗トイレではなかったので部屋まで臭いが漂ってきました。そこには15年くらい住んでいたので、とうとう臭いで天気がわかるようになりました。『臭いがきついから今日は雨だな』『臭いがしないから晴れてるな』とか。台風で木枠の窓が吹き飛ばされたこともありました(笑)」
「劇団方南ぐみ」で活動しながら、テレビドラマや映画にも端役だが出演していた。デビュー作を聞くと「小さい役ばかりでしたから、デビュー作はなんだろう」と苦笑しながら考える……。
「映画ですね。1992年に公開された村田雄浩さん出演の『おこげ』です。ゲイのカップルを巡る物語で、僕は『コント山口君と竹田君』の竹田(高利)さんが経営するゲイバーの従業員役でした。セリフは……なかったです。
演劇研究所には通いましたが “現場” というものを教えられたことがなかったので、しばらくはスタッフさんに怒られながら『立ち位置』などを覚えました。でも役者をやめようと思ったことはなかったです。
もっとも、やめたところでほかの仕事ができるわけではなかったですから、続けるほかなかったんですが」
「死体役」も多かった。
「死体役って難しいんですよ。薄目を開けた死体は視点を固定できるからまだいいんですけど、完全に目を閉じると無意識のうちに眼球が動くんです。そうすると監督に怒られる。しまいには『首の頸動脈が動いてるぞ』とまで言われるんです。『山ヒル注意!』の看板がある山で寝転がされたときは必死で動かないように演じて、『早く終わってくれ!』と祈っていました」