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美川憲一、芸能界入りから60年、常に支えにしていた “母” からの言葉「あなたはしぶといから大丈夫」

エンタメ・アイドル 投稿日:2024.01.21 11:00FLASH編集部

美川憲一、芸能界入りから60年、常に支えにしていた “母” からの言葉「あなたはしぶといから大丈夫」

美川憲一

 

「表参道のあたりは昔から大好きなの。ブランドショップもたくさんあるけど、銀座とはまたちょっと違う雰囲気でしょ」

 

 美川憲一と訪れたのは、青山通りの南青山五丁目交差点と六本木通りの高樹町交差点を結ぶ、骨董通りにある人気イタリア料理店「イプシロン青山」。

 

 

「こちらがオープンしたのは7年前になるかしら。そのときから週に2回くらいおじゃましています。『キャンティ』『アッピア』などイタリアンの名店にもよく行きますけど、ここはカジュアルだからお買い物の帰りにもよく立ち寄ります。お味? 最高に美味しいわよ。私が言うんだから間違いないわ、フフフ」

 

 赤ワインに口をつけ、テーブルに並ぶ料理を楽しむ美川は今年デビュー60周年を迎えるが、芸能界を目指した16歳のころを鮮明に覚えている。

 

「私には “ふたりの母” がいました。産みの母と育ての母。母もあとでわかったことですが、男性には妻子がいました。私が2歳のときに産みの母が肺結核を患ってしまい、私は母の姉に預けられました」

 

 暮らしていた南佐久間町(現港区西新橋一丁目)の家は持ち家だったが古く、雨漏りもした。実母はそこによく訪れていたため、子供心に “ふたりの母” の関係性に気がついていたという。

 

「すべてを知ってからも反抗する気持ちなどはなかったです。それよりも『芸能界に入ってふたりの母を楽にさせたい』と思うようになり、高校を1年で退学して東宝芸能学校に入学しました。

 

 そこはモダンバレエやタップダンスなどの授業もあって、芸能に関わる総合的な勉強をしました。授業が終わったら新橋の喫茶店でアルバイト。そして、1964年に『大映ニューフェイス』の第17期に合格したんです」

 

 大映では6カ月の研修を受け、俳優デビューが約束されていた。だが、美川は歌手へと路線を変更する。

 

「最初は『俳優になるなら歌も歌えたほうがいいのでは』という考えで作曲家の古賀政男先生をご紹介していただきました。だんだん歌にも自信がついて、そうしたら『母たちのために一攫千金を狙うなら歌の世界がいい』と思うようになったんです。当時は、俳優より歌手のほうが収入はよかったの。だから、私、映画には1本も出演せずに歌手デビューをしました」

 

 研修所の所長は激怒したが、美川は育ての母と土下座をして謝った。最後には所長も「このコは大成するから、僕たちも応援させていただくよ」と笑顔で送り出してくれた。

 

 1965年、『だけどだけどだけど』で念願の歌手デビューをしたがまったく売れなかった。

 

「育ての母が新橋のレコード店に行き『美川憲一のレコードが欲しいんですけど』と言ったら『ないねえ』と言われてショックだったと言っていました。全国キャンペーンもしました。木賃宿に泊まって、初めての五右衛門風呂ではふたを沈めないで入ったからアッチッチ。寝るのは、ゴザの上のせんべい布団。南京虫に刺されました」

 

 しかし翌年に発売した『柳ヶ瀬ブルース』が130万枚の大ヒットになった。

 

「でもね、本心は歌いたくなかったの。この曲は岐阜の繁華街の柳ヶ瀬で流しをしていた方が作った歌で、それを聴いたプロダクション関係者がその方に交渉して私に持ち込んでくださったんです。歌詞もよくわからないから『歌えません』と社長に言ったらこっぴどく怒られて、レコーディングも嫌々。ふてくされながら低音の声でぶっきらぼうに歌ったら『若いのに冷めていていいね。突き放すような歌い方もいい』と逆に褒められちゃって」

 

 ミリオンヒットになり、給料も上がった。デビュー直後は月給2万5000円だったが、『柳ヶ瀬ブルース』のヒットで7万円に。すぐに15万円になり、『新潟ブルース』『釧路の夜』などヒット曲を連発するとデビュー2年後には350万円になっていた。当時の大卒初任給の月給は3万円。かけそばは50円だったので、今の貨幣価値に換算したら3000万円超になる。

 

「もう、ウハウハだったわよ」と笑う美川。そして1972年、『NHK紅白歌合戦』でもたびたび歌うことになる『さそり座の女』が発売された。

 

「この曲は(シングルの)B面に収録される予定でした。すごくいい曲だったので、私が(作曲家・作詞家の)先生やレコード会社に『歌い出しが否定形だったり、 “地獄のはてまでついて行く” なんていう歌詞は新しい感じじゃないですか』とお願いしてA面にしていただきました」

 

『さそり座の女』も大ヒット。さらにウハウハになった美川だが「ちょっと “やんちゃ” をしちゃって、しばらくお仕事を控えていたんです」とふり返る。

 

「そのときも支えてくれたのはふたりの母でした。私に『大丈夫よ。つまずけば、つまずいた人のこともわかるようになるから。つまずきをバネにして生きなさい』と諭してくれたんです。そのときつくづく『母の子でよかった』と思いました」

 

 1987年、ふたりの母の言葉どおりに美川は再び脚光を浴びる。きっかけは、タレント・コロッケのものまねだった。

 

「私の誕生日パーティにコロッケが来てくれたので『あなた、私のものまねをやりなさいよ』と強気で言ったの。最初は『え~、難しくてできません』と言っていましたけど、パーティでもしっかり私のことを観察していました。それからすぐに番組で私のものまねをするじゃない。『コロッケ、いいコねえ』と思ったわ」

 

 1989年には番組でコロッケとの共演も実現している。美川は「いい迷惑よ」と毒を吐いたが、嬉しかった。

 

 さらに1990年、金鳥の「タンスにゴン」のCMにちあきなおみと出演。このときのセリフ「もっと端っこ歩きなさいよ」は流行語になった。

 

「あのCMには裏話があるのよ。監督から突然、『美川さん、自転車にお乗りになれますよね』と聞かれたの。乗ったことなかったですけど、『無理です』とも言えないので2時間練習。なんとか乗れるようになってもヨタヨタで、ペダルをこぐことに集中すると台詞が出てこないから(本番が)心配でした。だからあのフラつきは演技じゃなかったのよ」

 

 美川は「時の人」となり、キャラクターグッズも発売され、移動のため駅に行くと人だかりができるほどになった。

 

●ブルースの女王との出会いが転機に

 

 紆余曲折があった歌手人生だが、大きな影響を与えた人物を聞くと「越路吹雪さんと淡谷のり子さんですね」と答えた。

 

「私にシャンソンを歌うようにすすめてくださったのは淡谷さんでした。初めてお会いしたのは『柳ヶ瀬ブルース』を歌ったころだから20歳かしら。たしか、雑誌での対談でした。淡谷さんはお仕事の後だったのですごいお化粧のまま。私、間近で見てびっくりしちゃって、後ずさりしてしまったの。そうしたら『わたくしの顔が怖いんでしょ?』とお聞きになったので、『はい。怖いです』と答えてしまったら、淡谷さんは『正直でいいわね』と笑ってくださって」

 

 淡谷さんとは一緒に海外旅行をするなど親交が深まり、実母もファンだった越路吹雪さんとの縁もつないでもらった。

 

「越路さんのご自宅にもよく遊びに行かせていただきました。おふたりから学んだことは『お金は貯めちゃダメ。(銀行の)通帳を開いたらいくら入っているか気になってしまうから眺めないのよ。家だって寝られればそれでいいから、稼いだお金は自分磨きに使いなさい』ということです。人様に夢を見ていただくお仕事ですからドレスも装飾品も本物を身につけなさいと教えられました」

 

 こうして美川は60年前に誓った「ふたりの母に楽をさせる」という目標をかなえることができた。

 

「言葉は乱暴ですけど産みの母から『あなたは望まれて世に出てくる子ではなかった』とも言われましたが、一方で『しぶといから大丈夫。最後まであきらめないでやり遂げなさい』とも言われ、その言葉を胸にしまいながらの60年でした。1993年、世田谷に家を建てて3人で暮らしました。ふたりから『幸せな人生だった』と感謝されましたが、私こそ感謝でいっぱいでした。強さを身につけたふたりの母の子供だったから、ここまでこられたと思います」

 

 美川にとって、かけがえのないふたりの母だった。

 

みかわけんいち
1946年生まれ 長野県出身 1965年、歌手デビュー。『釧路の夜』が大ヒットした1968年に『NHK紅白歌合戦』に初出場。これまで26回出場している。YouTubeで「美川憲一のおだまりチャンネル」を配信中

 

【 YPSILON AOYAMA 】
住所/東京都港区南青山5-16-1 青山ビル1F
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定休日/日曜・隔週水曜

 

写真・野澤亘伸

( 週刊FLASH 2024年1月30日号 )

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