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原田大二郎、半世紀以上に及ぶ俳優人生の気づき「 “演じている” ことを見せないほうがお客さんは観てくれる」

エンタメ・アイドル 投稿日:2024.04.21 11:00FLASH編集部

原田大二郎、半世紀以上に及ぶ俳優人生の気づき「 “演じている” ことを見せないほうがお客さんは観てくれる」

原田大二郎

 

 京王線千歳烏山駅から歩いて16分。「栄寿し 総本店」は便利な場所とは言えないが、開店直後から満席になり、閉店まで客足が絶えることがない、安くてうまい人気店。創業60年になる老舗だ。

 

「『水戸黄門』(TBS)の うっかり八兵衛 役で知られる高橋元太郎さんが『大二郎、安くてうまい寿司屋があるんだよ』と教えてくれたのが30数年前。ある時、たまたま店の前を通りかかり、『あ、元ちゃんが言ってた寿司屋だ』と叫びました。一緒にいた女房は寿司好きで『入りましょう』と。その時が初めてです」

 

 懐かしそうに語る原田は「ここの寿司を食べると、故郷で食べてた新鮮な魚を思い出します」と目を細めた。

 

 

◾️女房と義兄には頭が上がらない

 

 山口県の瀬戸内海に面した漁村で育った。「瀬戸内海の穏やかな波と、明るい太陽が僕のゆりかごだった」と振り返る。明治大学法学部に進学した翌年の1964年に東京オリンピックが開催された。

 

「新聞に『今後はグローバリゼーションの時代』なんて書いてあるけど『グローバリゼーション』の意味がわからない。『これは、いかん』と英語部に入った。英語劇があって、明治、上智、学習院、成城、明治学院が競い合うオーディションに誘われたけど、僕は断わっていました。ある日、ディレクターが『オーディションに落ちるのが怖いのか』と。それにカチンときて『受けるけど(合格しても)ドラマには出ませんよ』となってね。つまりは挑発に乗ってしまったんだ。

 

 オーディションのテーマは『夜、アパートに帰ってきたら電報配達夫が来訪。電報を見ると”ハハ、キトク”。それをエチュード(即興劇)で演じる』というもの。なにもないのに封筒を開けるマネ。手のひら(電報)を見た瞬間、母親との思い出がよみがえり、手は震え、涙が止まらなかったんです」

 

 原田は「この激情はなんだ? 芝居を一生かけて追求してみたい」と思い定めた。

 

「大学3年のとき下宿を探していると、友人が『俺の隣の部屋が空いてるぞ』と。新宿の成子坂下の3畳一間、家賃は月3000円。その男が劇団雲の研究生で、彼の舞台をよく観ていたので卒業して劇団雲の試験を受けました。雲の試験は楽勝。つき合っていた今の女房が『文学座も受けてみたら』と言ったんです。800人の受験生を見たとき、『あ、こりゃダメだ』と思ったね。結果は劇団雲、文学座ともに合格でした。

 

 文学座の年間授業料の8万円は姉のご亭主が全額、出してくれました。女房と義兄には頭が上がらない。父はずっと役者修業には反対でした。僕が文学座に入った年、父は逝きました。父が、舞台を観ていたら……『お前には、役者の才能がない』って、もっと反対していたんじゃないかな(笑)」

 

 株券の裏書き、ボウリングのピン洗いなどのアルバイトをしながら演技を磨き、1970年に『エロス+虐殺』で映画デビュー。この作品がきっかけで、原田は大役を射止める。

 

「同年に新藤兼人監督の『裸の十九才』で主演させていただきました。1968年に起きた少年連続射殺事件を描くこの作品は、6カ月にわたって撮影。その期間中、『あぁ、幸せだ。いつ死んでもいいなぁ』と思っていました」

 

 初めて新藤監督と会ったのは赤坂の喫茶店。監督が射貫くような視線で原田を見た。向こうっ気の強い原田は、にらみ返した。

 

「にらみ合いながら、『監督は広島のご出身ですか。僕は山口です。隣組ですね』なんて、のんびり話したものでした」

 

 台本を渡された原田は、家に帰り、ページを繰った。すぐに引き込まれ、涙があふれ出た。

 

「台本を読んで泣いたのは初めてでした。ボロ泣きです。『この役、やりたい!』、同時に『あ〜、(監督を)にらまなければよかった』とひと晩、後悔しました」

 

 次の日、「原田君に決まったから」と知らせがきた。作品は、モスクワ国際映画祭で金賞(グランプリ)を受賞。原田も’70年度エランドール賞新人賞を受賞した。

 

 次第にテレビ出演も多くなった。NHK大河ドラマでは『新・平家物語』(1972年)で平重盛、『勝海舟』(1974年)では千葉重太郎を演じ、『大岡越前』(TBS)も各部作に出演している。そうしたなかで、思い出深いのはハードボイルド刑事ドラマ『Gメン’75』(TBS)だ。

 

「あのドラマで、すごく人気が出たね。香港からもファンレターが届いて、郵便局が段ボールで手紙を運んでくる。僕が町を歩くと背後で大騒ぎ。後ろを歩いていた友人が『大二郎、お前が歩くと、風が起きる』と言っていました」

 

 その後、映画『哀しい気分でジョーク』(1985年)でビートたけしと共演したことから、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(1985〜1996年、日本テレビ)に「幸福配達人」として出演。バラエティ番組からも声がかかるようになった。

 

「監督たちからは『大二郎はバラエティ役者になった』という声が聞こえてくる。僕としては、役者とバラエティを両立させたかったけど、たけちゃんや、(明石家)さんまちゃんにはなれない。『役者』というひとつの道を、突き詰めないといけなかったんだと思いますよ。後悔はしてないけど」

 

 役者は結局、等身大でしか演じられない。原田は「上に行こう(成長しよう)と思ったら、修養、修業して自分を大きくするしかない」と言う。

 

「若いときは『私の芝居を観て』という気負いばかりが勝つ。しかし、僕は60歳を過ぎたころから逆に『芝居やってるのを、見せたがらなくなる』と感じ始めました。

 

 そうすると、不思議とお客さんは僕の芝居を観てくれる。まだまだ感動していただける芝居はできていないけど。ゴールだと思ってテープを切ったら、その先に、まだコースとゴールが始まっているので、ずっと走り続けなければならない。だから楽しいんですけどね」

 

 80歳になった原田。「まだまだ、役者修業中です」と笑った。

 

はらだだいじろう
1944年4月5日生まれ 山口県出身 明治大学卒業後、劇団文学座へ入座。 1970年に主演映画『裸の十九才』が公開。主な出演作は映画『トラック野郎・故郷特急便』(1979年)、『蒲田行進曲』(1982年)、『敦煌』(1988年)、『極道の妻たち 死んで貰います』(1999年)、ドラマ『Gメン’75』(1975〜1982年、TBS)、『やんちゃくれ』(1998年、NHK)など。舞台は野伏翔演出『めぐみへの誓い 奪還』、東憲司演出『崩壊』ほか。『朗読とパーカッションの新世界』も定期的に開催している

 


【栄寿し 総本店】
住所/東京都世田谷区祖師谷6-33-15 
営業時間/11:00~22:00(L.O.21:30) 
定休日/木曜

 


写真・野澤亘伸

( 週刊FLASH 2024年4月30日号 )

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